「源海上人と荒木門徒」

源海上人は真仏上人の弟子で、興正寺の第三世とされています。上人は親鸞聖人の関東の門弟の流れをくんでおり、上人自身も関東に住んでおられました。上人は親鸞聖人入寂後の関東教団のなかの有力者で、弟子は各地にひろがり、上人にはじまる門徒団は大きく発展していきます。興正寺も上人からの法脈を伝えており、源海上人を第三世としています。

興正寺の伝承では、源海上人は親鸞聖人入寂の十六年後に亡くなったとされています。行年は五十六歳であったとも、九十歳であったともいわれています。そうならば上人は親鸞聖人とさほど世代にへだたりのない人となりますが、親鸞聖人の入寂から四十年たった時に上人が署名された文書がのこされており、実際には伝えられる世代よりも一世代のちの人であることがあきらかにされています(本願寺文書)。

上人の行状はくわしく知ることができませんが、ふるくからの伝えによれば、上人はもと安藤隆光という武士であったとされ、寵愛する二人の幼子を相次いでうしない、それを機縁に仏門に入ったといわれています。その後は武蔵国の荒木(埼玉県行田市)住して、満(万)福寺という寺を開いたのだと伝えられます(親鸞聖人御因縁、山梨万福寺記録など)。

仏門に入ったのちの上人が武蔵国の荒木に住したことは確かで、『親鸞聖人門侶交名牒』にも源海上人が荒木に住したと記されています。この荒木という地名から、上人にはじまる門徒団を一般に荒木門徒といっています。

荒木門徒は大きく展開していきますが、地理的にもひろい範囲にわったってひろがっていったという特色があります。上人の弟子である源誓は相模(神奈川県)から甲斐(山梨県)に進出し、甲斐に万福寺という寺を開きます。興正寺の第四世とされる了海上人は武蔵阿佐布(東京都)に拠点をおいて、その跡は善福寺という寺になっていきます。やがてここからは、山陰地方に進出したものや、京都に進出した興正寺なども出てきます。荒木にあったという満福寺もはやくに三河(愛知県)に移転し、如意寺と名をあらため発展していきます。

はやい時期にこうして広範囲に門徒団をひろげることができたのは、背後に武士の支援があったからだと思います。この時代、関東の武士はあらたな支配地を求めてさかんに移住をおこないます。荒木門徒も武士の支援をえて、武士の移住にともってあたらしい土地に進出していったのだと思います。

荒木門徒が大きく発展したのは伝導に工夫をこらしたからだともいわれます。因縁やたとえ話をまじえて通俗的に教えを説いたり、物語の絵を見せて絵を解説しながら話しをすすめる絵解きをおこなっていたと指摘されています。芸能の要素をくわえ庶民的でわかりやすいことに荒木門徒の伝導の特徴があったようです。聞く人には身近に感じて受け入れやすいものだったのでしょう。

庶民的な女人教化をすすめたことも荒木門徒の特色で、いまは普通に使われている坊守という語もこの門徒団で使われだしたものでした。坊守という語は仏教の用語でもなく、正式な国語にもない不思議な語で、あきらかな造語ですが、荒木門徒では法然上人が使ったものだとし、そのおこりを説明していました。

それによると、法然上人の教えをうけた九条兼実という貴族が、在俗のものが本当に往生することができるのかとの疑問をいだき、そのあかしに法然上人の弟子をえらんで自分の娘を結婚させようとします。えらばれたのが親鸞聖人で、ことわりきれずに兼実の娘と結婚しますが、後日、法然上人は結婚後の娘のすがたを見て、文句のない坊守だといったのだといい、それ以後、道場の主婦を坊守というようになったのだとされます(親鸞聖人御因縁)。

坊守という語が知られていない造語だから語のおこりが説明されるわけで、法然上人に託し、坊守がいわれのある語なのだと説いたものといえます。

坊守とは坊主という語に対応し、坊主の語からつくられたもののようですが、実際に当初はいわば女の坊主という意味も込めて使っていたのだと思います。荒木門徒では坊守がまさに坊主と対になって、坊主と同格に門徒の教化にあたっていました。ことに女性の門徒の指導は女の坊主としての坊守の役割だったとみられ、荒木門徒が女性の信仰をあつめたのも、坊守のちからによるものだと思います。

(熊野恒陽 記)