「了明尼公 その一」

~了源之坊守~

興正寺では歴代の第九世を了明尼公としています。了明尼公は了源上人の妻であり、興正寺の第八世とされる源鸞上人の母にあたる人物です。子息に遅れ、母親が次の代を継いでいることにはいささか奇異な感じを受けますが、これについては源鸞上人がわずかに二十九歳で没したことから、母である尼公が寺を継いだのだと説明されています。

いまでこそ了明尼公は歴代の第九世に数えられていますが、これは明治時代になってから歴代に入れられたもので、江戸時代の興正寺では尼公を歴代には入れていませんでした。歴代というと、厳格に固定したものとの印象を受けますが、興正寺の歴代はのちの時代に時間をさかのぼって決められたもので、多分に便宜的に決められとの面が含まれています。このことは佛光寺本山においてもいえることで、江戸時代の佛光寺では通常は尼公を歴代に加えていましたが、その一方で尼公を入れずに歴代を数えることもありました。

歴代に入れる、入れないはのちの時代の問題であり、それは尼公にとってはあずかり知らぬ問題です。入れようと、入れまいと、尼公は確かに実在したのであり、その足跡にもまた大きなものがありました。

尼公が了源上人と結婚したのは、文保元年(1317)のことと伝えられます。これは了源上人が興正寺建立の勧進をはじめた年の三年前にあたっています。了源上人の死まで、上人と尼公が夫婦であった期間は二十年ということになります。

尼公が尼となった時期については、江戸時代には一般に尼公は了源上人の没後に尼となったと説かれていました。「及了源示寂薙染称了明」、了源上人の示寂に及んで、髪を剃り、衣を染めて、了明と称したといっています(『渋谷歴世略伝』)。夫の没後、妻が尼となるというのは慣習としては一般的なもので、世俗の社会にあってもひろくみられた行為です。その場合には、尼といっても、完全に尼となるのではなく、髪型を尼削(あまそ)ぎといわれる髪型とし、あとは世俗の生活を送るという、いわば簡略なかたちの尼となるのが普通でした。尼削ぎは、髪を肩のところで切りそろえた髪型で、この髪型をすることが尼の標示となりました。

江戸時代、尼公が了源上人の没後に尼となったと考えられたのは、こうした一般の慣習を踏まえてのこととみられますが、これはどう考えてもおかしな説明です。絵系図や光明本尊には尼公は了源上人の横に尼の姿で描かれており、そこからいっても尼公が了源上人の在世中から尼となっていたのは間違いありません。尼公が「了源之坊守」といわれたように、尼公は坊守なのであり、当然、了源上人の在世中から坊守としての活動をしていたとみられます(「西坊代々過去帳」)。

坊守はいまでは寺院の婦人の意味となっていますが、坊守との語には、本来、女の坊主との意味が込められていたと考えられます。尼公も女の坊主として、坊主と伍して教化を行なっていたということなのでしょう。

坊守の役割については判然としない部分ものこりますが、坊守の役割に女性への教化ということがあったのは疑いありません。了源上人は「同一念仏ノ行者、男女ノ席ヲワカチテ、ミタリニ混乱スヘカラス」といっています(『算頭録』)。男女の席を分けるようにとの取り決めですが、こうした取り決めからするなら、法座にしても、男性のみの法座、女性のみの法座というものがあったのだとみられます。そして、その女性のみの法座を取り仕切ったのが坊守で、それが坊守の重要な任務だったのではないかと思います。

坊守である了明尼公が佛光寺にのこした足跡には大きなものがあって、たとえばのちの文明十二年(1480)正月二十三日、佛光寺山内の西坊性宗という僧は自身にとって重要な文書を認めていますが、この正月二十三日は尼公の忌日であり、性宗はわざわざ尼公の忌日を選んで文書を書いています。その文書には尼公の忌日に斎が行なわれるとも書かれており、佛光寺にとって尼公の忌日が重要な日として捉えられていたことが知られます。尼公に大きな活躍があったからこそ、その忌日も重視されたのでしょう。

了明尼公が坊守として活躍しえたのは、佛光寺が夫婦の関係を肯定し、夫婦で坊主と坊守となるという徹底した在家主義を貫いていたからであり、尼公の活躍も背景に在家主義があったからこそ可能だったということができるでしょう。

(熊野恒陽 記)