「了明尼公 その二」

~悪僧の弁舌~

了明尼公は、その時代としては長命で、八十三歳の長寿をたもっています。尼公が佛光寺を引き継いだのは、長子の源鸞上人の没後のこととされますが、そうであるなら、それは尼公の五十四歳のことになります。以後、八年間、尼公は六十一歳の時まで佛光寺の住持をつとめたといわれています。

この八年間というのは、伝えとして、一応、そう伝えられているということであって、もとより正確なものということはできません。尼公については判らないことが多く、生没の年を除いて、正確な事柄はほとんど知られていません。尼公が八年間、佛光寺の住持をつとめたというのは、江戸時代の佛光寺でいわれ出したものですが、佛光寺にしても、正確な記録にもとづくというより、前後のながれから考えて、一応、八年間と判断したというのが実情だと思います。

正確な事柄は判らないものの、尼公についての伝承はいくつか伝えられます。そのなかで強調されるのは、尼公は源鸞上人を助けることが多かったということです。源鸞上人が十八歳で佛光寺を継いでいることからすれば、当然、ありうることで、実際に源鸞上人と了明尼公とは、尼公が上人を補佐するという関係にあったのだとみられます。歴代としては源鸞上人が第八世、了明尼公が第九世と分かれていますが、上人と尼公の関係は画然と分けられるものではなく、上人の在世中は、尼公はいわば後見役をつとめ、源鸞上人の亡きあとは、自らが表舞台に立ったというのが実際のところなのだと思います。

尼公の代の佛光寺が対外的にも大きな発展をみせていたことは疑いのないところで、このころから真宗の記録以外にも佛光寺の名が現れるようになってきます。その最初は京都の祇園社の記録で、佛光寺が比叡山の弾圧の対象となったとして、佛光寺の名が出てきます。

未刻就下北小路白川佛光寺破却事、寺家公人十余人…下洛、
即可召具犬神人之由申間、以寄方催促、仍廿人許罷出之間、山門公人犬神人等、
山徒曼殊院同宿大進注記、自元住彼寺、問答云、当寺事先年山門就有其沙汰、
歎申間、東西両搭学頭出連判免状了、而俄今度無左右及破却沙汰之条、不可然、
此趣於山上可有其沙汰、先可罷帰之由候間、山門公人等、不遂其節退散候間、
当社公人並犬神人等、同罷帰了
(『祇園執行日記』)

これは祇園社で執行(しぎょう)という役職をつとめていた者が記した日記で、正平七年(1352)閏二月十五日条にこの記事がみられます。尼公の五十九歳の時にあたっています。いわれているのは、比叡山で佛光寺を破却するとの決議がなされ、山門の使いの者十数人と、祇園社の配下の者二十人ほどが佛光寺に押しかけた、ということです。つづけて、その時、佛光寺には曼殊院同宿大進(だいしん)注記(ちゅうき)なる者が住んでいて、その者が、佛光寺を破却するといっても、この寺は先年、比叡山の許しを得ており、比叡山の東搭、西搭の学頭たちが書いた免状も与えられている、それなのにどうしてこのような振る舞いをするのか、まずは比叡山に帰って事実を確かめてほしい、といったと書かれています。そして、この大進注記の弁明をうけて、比叡山、祇園社の者たちは帰っていった、と結ばれています。

ここに記されるように、この時の佛光寺の破却の問題は、大進注記なる者の活躍により、一旦はおさまります。しかし、この問題は尾を引き、比叡山の圧迫はその後もつづくことになります。そして、そのたびごとに比叡山との交渉にあたったのが、佛光寺に住んでいたというこの大進注記という人物でした。この人物がいかなる者であったのかは、詳細には知りえませんが、一連の行動からみて、この人物は悪僧といわれる者なのではないかと思われます。悪僧とは、僧の名をもちながらも、所領を支配したり、経済活動を行う者のことで、時には武力を用いたり、他人の訴訟に介入することもありました。当時、こうした悪僧といわれる者が多数いたことが知られていますが、加えて悪僧には注記と称する者が多かったことも知られています。

悪僧は一面では批判の対象とされていましたが、反面、弁が立ち、諸般の能力や、経済力をもつということでは、かれらはいわば実力者でもありました。佛光寺の危機を救ったのも、悪僧、大進注記の弁舌です。尼公の時代、佛光寺がそうした悪僧をも抱えこんでいたとなると、社会的活動や、経済活動を含め、尼公の代の佛光寺の発展には、相当、大きなものがあったということになります。

(熊野恒陽 記)