「聖人三百回忌」

~これ以後、七条袈裟を用いるようになる~

永禄四年(1561)三月、大坂本願寺では親鸞聖人の三百回忌の法要がいとなまれています。顕如上人が門跡となってから一年半後のことです。顕如上人は永禄二年(1559)の十二月に門跡になっています。顕如上人が門跡になったということもあり、この聖人の三百回忌の法要はきわめて盛大にいとなまれました。

法要が行なわれたのは三月の十八日から二十八日までです。十八日には逮夜の勤行があり、その後、十日間にわたって法要がいとなまれました。

法要に先だって、本願寺は法要について、本願寺の本寺である青蓮院にいろいろな相談をしています。

御仏事の儀式…他宗の衆参詣もあるべし。先聖道の衣裳しかるべき由にて、法服、
衲袈裟用意あり。青蓮院門跡の出世松泉院法印に御談合と云々(『今古独語』)

法要について触れている記録には、法要には真宗以外の他の宗の人たちも参詣するため、衣装も真宗以外の聖道門の各宗で用いる衣装が良いということなので、法服、衲袈裟を用意したとあり、そうしたことは青蓮院の松泉院法印と話し合って決めたと書かれています。

ここには法服、衲袈裟を用意したとありますが、法服は袍裳ともいわれるもので、法衣としてはもっとも格の高いものです。衲袈裟は、錦、金襴を用いた七条袈裟のことです。本願寺はそうした衣装を用意したというのです。法要にそなえ用意したとあるように、法服、衲袈裟は、元来、本願寺では用いられなかったものです。それまで本願寺で用いられていたのは、裳付衣に青袈裟といったものです。これらは衣装としては格の高いものではありません。むしろ簡素な衣装です。

法要に際し、格の高い衣装へと変えられたことになりますが、変わったのは衣装だけではありません。儀式の内容も変わっています。この法要では行道も行なわれています。儀式もまた華美なものとなったのです。

法事の作法は、日中三部経一巻づゝ、伽陀あり。
読誦の後、まづ導師礼盤に向ひ三礼、其後十四行偈を始め行道、
次に漢音の阿弥陀経、念仏回向なり。
導師は御堂衆…内陣行道の衆は、御門主、本宗寺、願証寺、顕証寺…
(『今古独語』)

日中の勤行では、浄土三部経のうち一巻が読誦され、その後、導師が礼盤に上がり、十四行偈が読まれて、行道をし、漢音の阿弥陀経が読誦されたと書かれています。次いで、念仏、回向文が続けられたとも書かれています。導師は御堂衆がつとめ、門主である顕如上人をはじめ、本宗寺、願証寺などの本願寺住持の一族の寺の住持が行道をしたとあります。この行道をした顕如上人と本願寺住持一族の寺の住持、それに御堂衆が法服、衲袈裟を着けました。

この行道といったものも、それまでの本願寺では行なわれなかったものです。本願寺で行なわれていた勤行は、正信偈、和讃の読誦と御文の拝読を基本とした勤行です。三百回忌の法要では日中の勤行に浄土三部経が読まれていますが、これにしても特別なものです。通常の報恩講の日中の勤行は、浄土三部経の読誦ではなく、式文、すなわち覚如上人が著した『報恩講式』の拝読を中心に進められました。正信偈、和讃、御文、式文といった、真宗や本願寺だけで用いられるものが用いられず、ひろく一般にも用いられる浄土三部経を用いて儀式が行なわれているのです。他の宗の人たちが参詣することへの対処だといえます。

こうして衣装、儀式が華やかなものになったことに加え、荘厳もまた華麗なものとなっています。

堂荘厳の様、まづ御厨子の内を金になされ、外の彫もの綏色なをされ…
前の机大になされて、それに随ひ打敷、水引用意あり(『今古独語』)

親鸞聖人の御影を安置する厨子の内を金色とし、外の彫り物にも彩色をしなおしたとあります。前卓も大きくし、内敷、水引も用意されたとも書かれています。

衣装、儀式、荘厳が華美なものとなるとともに、この法要では出仕の坊主や参詣の人たちの数も多数に及んでいます。法要はまさに盛大に執り行われたのです。

法要を機に本願寺は衣装や荘厳を華やかなものとしていきますが、これはやみくもに華美なものにしていったということではありません。門跡という寺の格から、華美にせざるをえないという面もありました。

この法要ののち、本願寺では七条袈裟が、常時、用いられるようになり、荘厳も華やかなものになっていきます。門跡になったということにより、本願寺にはさまざまな変化が生じていったのです。

(熊野恒陽 記)