「大火」

~興正寺は焼けのこる~

永禄四年(1561)三月、大坂本願寺では親鸞聖人の三百回忌の法要がいとなまれましたが、その翌年の永禄五年一月、大坂の寺内町は大火に襲われます。

夜小坂本願寺之内火事、本坊不苦二千軒焼失

醍醐寺の僧、厳助の日記である『厳助往年記』の永禄五年正月二十三日条です。一月二十三日の夜、大坂で火事があり、本願寺は無事だったものの、寺内町の町屋、二千軒が焼けたと書かれています。きわめて大きな火災であったことがうかがえます。

火災はその後、永禄七年(1564)にも発生しています。この時には本願寺の堂舎も焼けました。

永禄七年十二月廿六日はからざるに回禄の事ありて、
御坊中一宇も残らず焼失あり(『今古独語』)

十二月二十六日、火事があり、本願寺の堂舎は一宇ものこさず焼け落ちたとあります。本願寺だけではなく、この火災では町屋も千軒近く焼けています。百人ほどの死者も出ました。

寺内町は大火に襲われましたが、興正寺の堂舎はこの時の火災では焼けることはありませんでした。興正寺の堂舎が焼けのこったことは、興正寺のみならず、本願寺にとっても幸いなことでした。火災後、本願寺の顕如上人は延焼をまぬがれた興正寺に移り住みます。

顕如上人が興正寺に滞在したのは永禄八年(1565)の四月二十二日までです。本願寺の再建工事は、火災後、すぐに始まります。顕如上人は四箇月ほどで本願寺へと戻ることができました。

本願寺の再建で、まず着工されたのは阿弥陀堂の工事です。阿弥陀堂は再建ではなく、摂津国の部山という所にあった堂を移築して阿弥陀堂としました。阿弥陀堂の立柱式は永禄八年二月三日に行なわれています。顕如上人が興正寺に滞在していた間のことであり、立柱の祝いは興正寺で行なわれました。

うへさまハ被成御帰候て興正寺殿にて御肴一献参候
(『永禄八年阿弥陀堂之御礎之記其他』)

御影堂の方は永禄八年の八月に工事が始まり、九月二十六日に立柱式があって、十一月十八日にはここに親鸞聖人の御影が移されています。御影は報恩講に合わせ移されたものであり、永禄八年の報恩講はこのあらたに建てられた御影堂で執り行なわれました。

顕如上人が興正寺に移り住んだ際には、顕如上人だけでなく、顕如上人の家族も興正寺に移り住んでいます。顕如上人の祖母である慶寿院や顕如上人の妻である如春尼、それに顕如上人の長男であるのちの教如上人たちです。このほか顕如上人に仕えていた人びとも興正寺へと移りました。火事で本願寺が焼ける十一箇月前の永禄七年一月二十二日には、顕如上人の二男にあたる阿古丸が生まれていますが、この幼い阿古丸も、当然、興正寺に移ったものと思います。この阿古丸がのち証秀上人の養子となって興正寺を継ぐ顕尊上人です。顕尊上人は養子になる前に興正寺に住んでいたことがあったのであり、興正寺と顕尊上人とにはもともと深い縁があったのです。

顕如上人は多くの人たちとともに興正寺に移りましたが、人数が多いのであれば、それだけ受けいれることも容易なことではなくなってきます。建物も多くの人たちを受けいれるだけの規模が必要ですし、人びとを受けいれることで通常の活動にも支障をきたすことになります。さらには日々の応対にもさまざまな配慮が必要です。証秀上人も顕如上人たちへの対応にはかなり気を遣ったと思いますが、こうした証秀上人の労苦に対し、顕如上人はその礼として、証秀上人を白衣の一家衆としています。

興正寺殿を御移渡よりすこしまへニ、白衣ノ一家衆ニなさせられ候て、
二万疋被参候(『永禄八年阿弥陀堂之御礎之記其他』)

興正寺から本願寺へと移るに際し、証秀上人を白衣の一家衆とするとともに、二万疋を贈ったとあります。疋は銭の単位で、一疋は銭十枚、すなわち十文にあたります。千文で一貫ですから、二万疋は二百貫になります。銭一貫は米一石に相当します。顕如上人は米二百石にあたる銭二万疋を贈ったというのです。白衣の一家衆というのは、一家衆のなかでも上位の一家衆を指す語のようです。白衣の一家衆となったあとの最初の本願寺の報恩講は永禄八年の報恩講ですが、証秀上人はこの報恩講で、はじめて内陣に出仕しています。

興正寺当年始て内陣出仕(『今古独語』)

一家衆としての位ではより上位の位となったため、内陣に出仕しているのです。

(熊野恒陽 記)