「顕尊上人」

~四歳で証秀上人の養子に~

顕尊上人は本願寺の顕如上人と、その妻、如春尼の子として、永禄七年(1564)一月二十二日に生まれます。

今夜亥刻に、小児さま御誕生也、即御祝参(「興正寺顕尊誕生幷慶事記」)

生まれたのは、亥の刻、すなわち夜の十時のことです。顕如上人と如春尼にとって顕尊上人は四人目の子です。二人の間に最初に生まれたのはのちに東本願寺を開く教如上人で、教如上人に続けて女子が二人生まれたあとに顕尊上人が生まれます。顕尊上人が生まれた時、顕如上人は二十二歳、教如上人は七歳でした。

顕尊上人が生まれた直後、本願寺では、仕えていた侍衆や女房衆に、干し栗、昆布、鯉などが振る舞われています。誕生の祝いとして振る舞われたものです。翌日の二十三日には、一家衆、女房衆、仲居衆に食膳が供せられ、誕生の祝いがなされました。

顕尊上人には阿古丸との幼名がつけられます。本願寺は顕尊上人が生まれる前から門跡寺院となっており、阿古丸こと顕尊上人もその後はそれに見合った生活を送りましたが、顕尊上人の誕生から十一箇月後の永禄七年の十二月二十六日、本願寺は全焼します。本願寺の焼失後、顕尊上人の父、顕如上人は家族とともに興正寺に移り住んでおり、幼い顕尊上人も一緒に興正寺に居住したものとみられます。

本願寺の再建工事はすぐにはじまり、顕如上人たちは四箇月ほどで本願寺に戻ります。本願寺に戻ってから八箇月後の永禄八年(1565)十二月十九日には、顕尊上人の髪置の祝いが行なわれています。髪置は毛髪を伸ばしはじめる時に行なわれる行事です。かつての習慣では、幼児は、通常、髪を剃っており、髪置を機に髪を伸ばしはじめました。髪置は子どもの成長の節目となるもので、二、三歳の時に行なわれます。

その後、永禄十年(1567)となって顕尊上人は証秀上人の養子となります。顕尊上人が養子となったのは九月二十六日のことです。顕尊上人は四歳、証秀上人は三十三歳でした。

顕尊上人が証秀上人の養子となってから四箇月を経た、永禄十一年(1568)一月十四日には顕尊上人の深曽木の祝いが行なわれています。深曽木は髪置以後、伸ばしていた髪を切り揃えるという行事です。これも子どもの成長の節目となるもので、五歳ころに行なわれました。

この顕尊上人の深曽木の祝いは本願寺で行なわれています。養子になったといっても、顕尊上人は興正寺に移り住んだのではなく、そのまま本願寺で生活を続けていたようです。顕尊上人の年齢からするなら、むしろそれが自然なことです。

この深曽木の祝いから二箇月後の永禄十一年三月十五日、証秀上人が亡くなります。証秀上人は三十四歳で亡くなりました。顕尊上人を養子に迎えたのち、わずか半年ほどで亡くなったことになります。三十四歳で亡くなったことからいっても、証秀上人は健康にはすぐれていなかったようですが、こうしてみると、証秀上人は自分の死期をさとって、顕尊上人を養子に迎えたように思われます。証秀上人は三十三歳で顕尊上人を養子にしています。証秀上人は願行寺勝心の娘と結婚はしましたが、この勝心の娘とはのちに離別しており、子どももいませんでした。しかし、そうであるにしても、三十三歳という年齢はどうしても養子を迎えなければならないという年齢ではありません。健康に不安があるからこそ養子を迎えたものと思います。

子供はおらず、その上、健康に不安があったとするならば、証秀上人にとって、後継者をどうするかは、まさに火急の問題であったはずです。顕尊上人は顕如上人の二男であり、養子になりうる立場です。ひろく本願寺の教団のなかにあって、養子となりうる立場の人びとのうち、もっとも身分の高いのが顕尊上人でした。もとより、養子を迎えるといっても、それは迎える側の意向のみで決まることではありません。養子に出す側にも、出す側の意向があります。顕尊上人を養子に出すかどうかを決めるのは顕尊上人の父である顕如上人ですが、顕如上人も興正寺を二男である顕尊上人が継ぐのにふさわしい寺だとみて、顕尊上人を証秀上人の養子としたのです。

証秀上人が亡くなった時、顕尊上人は五歳であり、得度もしていませんでした。証秀上人は幼い姿の顕尊上人しか目にしてはいませんが、顕尊上人が興正寺を継ぐことが証秀上人の存命中に決まっていたことは証秀上人にとっては幸いなことでした。

(熊野恒陽 記)