「門弟たち その二」

~佛光寺六坊~

江戸時代の佛光寺は共同で運営される寺となっていました。佛光寺山内に大きな力をもったのは六坊の住持たちで、何であれ、山内のことは、この六坊の住持たちと佛光寺住持との協議の上で決められました。佛光寺のことは、たとえ佛光寺の住持であっても、独断では決められないわけであり、まさに共同で運営される寺だということができます。

ここにいう六坊とは、南坊、新坊、西坊、中坊、奥坊、角坊のことで、現在はそれぞれ院号を称し、順に、大善院、光薗院、長性院、久遠院、教音院、昌蔵院といっています。六坊が力をもつに至ったのには、さまざまな要因がありますが、その一つとして、佛光寺における特殊な本末関係が挙げられます。佛光寺では、本山の直接の末寺である、いわゆる直末の寺が少なく、多くの寺は、六坊を上寺とし、直接には六坊の末寺となっていました。そして、この六坊が佛光寺本山の直末かというと、その関係は単に直末の関係ともいい切れない関係にありました。一般に六坊と佛光寺本山との関係は与力関係であったといわれています。与力関係とは、主従の関係ではなく、協力関係のことです。六坊はそれぞれに末寺をかかえながら本山に協力しているのであり、そうした特殊な関係から、六坊は山内に大きな力をもつことになりました。

六坊同士の関係としては、六坊はつねに協調しあって、同一の行動をとらなければならないと取り決められていました。六坊と佛光寺本山が協力関係にあるとはいっても、六坊のなかの一つの坊と本山とでは、さすがに格差がありすぎることから、本山との協力関係をたもつためにも、六坊は六坊同士で結合し、互いに協調する必要がありました。

六坊同士、もしくは六坊と本山との間で、特に注意が払われたのは門末の問題で、六坊が互いに門末を取り合うことも、本山が六坊の門末を直末に引き上げることも厳しくいましめられています。六坊の門末は六坊の門末、本山の門末は本山の門末と、厳格に分けられていたことになります。佛光寺は六坊の門末と本山の門末との結合で成り立っていたといえるでしょう。

佛光寺の住持と六坊の住持が、主従関係ではなく、協力関係であったことは、六坊の住持が佛光寺の住持と同様の振る舞いをしていたことからもうかがえます。六坊の住持は、自分の門末に対しては、いわゆるお剃刀(かみそり)をして、法名を与えていましたし、末寺の法要に出向いた際には内陣の向畳(むこうじょう)に着座することもありました。

六坊の住持の役割でもっとも重要なのは本山の勤行に出仕することで、日々の勤行を行なうことが六坊のつとめとなっていました。出仕はかれらの義務といえますが、それはまたかれらの権利でもありました。六坊住持の出仕は誰もそれをさし止めることはできず、たとえ佛光寺の住持であっても、とどめることはできませんでした。実際に六坊の住持の一人と佛光寺の住持が不和になった時にも、六坊の住持は佛光寺の住持との個人的な交渉は断っても、出仕だけは続けていました。佛光寺住持とはいえ、六坊の出仕はとどめられなかったことを示しています。協力関係という本山と六坊の関係からいっても、これは当然のことで、六坊の住持は佛光寺住持を介さずに、直接、佛光寺の本尊と御影に仕えているわけであり、本山と六坊が主従関係にない以上、佛光寺住持が六坊の出仕をとどめられるわけはありません。出仕は六坊の権利なのであり、出仕を続け、佛光寺住持と同様に、直接、本尊と御影に仕えることが、かれらの権威の源泉となりました。

佛光寺本山と六坊の関係は六坊の伝える由緒にも反映しています。六坊の伝える由緒では、坊の開基について、親鸞聖人の弟子が開基だとか、高田の顕智の弟子が開基だといっています。由緒のなか、了源上人の弟子が開基だといっていないところが肝要で、了源上人の弟子が開基だとなると、それはその坊が佛光寺の直末であることの証しとなってしまいます。本山との協力関係をたもつ上からも、了源上人以前から坊があったということを主張しなければなりませんでした。

伝えられる由緒はどうであれ、現実には、六坊が了源上人の門弟か、はやい時期の佛光寺の門弟によって開かれたことは疑いありません。六坊の体制がいつ始まったのかは判然としませんが、相当、はやくから確立していたことは確かです。後年、興正寺の末寺となる寺でも、もともとの六坊だったといっている寺があります。興正寺の分立以前から六坊の体制はあったということになります。

(熊野恒陽 記)