「脇門跡」

~脇門跡という寺格~

永禄十一年(1568)三月十五日、証秀上人は三十四歳で亡くなります。証秀上人の後継者である顕尊上人は五歳でした。

それから一年半ほどを経た、永禄十二年(1569)八月二十日、顕尊上人は脇門跡になります。

次男児之事、被申入候段被聞食候、可為脇門跡之由、
不可子細候也、穴賢ゝ(「興正寺文書」)

顕尊上人は正親町天皇の許しをえて脇門跡になります。この文書はその際に書かれたもので、顕尊上人を脇門跡にすることを認めるという正親町天皇の意向を伝えたものです。次男児を脇門跡にしてほしいという申し入れがあるが、申し入れのとおりに脇門跡とする、ということが書かれています。次男児とあるのが顕尊上人のことです。本願寺の顕如上人の二男ということから次男児と書かれています。ここから顕尊上人が脇門跡になったのは、顕如上人側からの働きかけがあって、それに応じて朝廷も脇門跡になることを認めたということがうかがえます。

顕尊上人が脇門跡になる際に書かれた文書はもう一点のこされています。

御ちごわきもんせきの事につきて、かやうにおほせいたされ候、

このよし申つたへられ候へく候よし、申せとて候、かしく(「興正寺文書」)

これは先の文書と一連のもので、顕尊上人を脇門跡にすることを認めるという正親町天皇の意向を天皇に仕えた女官がうけたまわり、女官がそのうけたまわった意向を伝えるために書いた文書です。女房奉書といわれる様式の文書で、女官が書くため仮名で書かれます。天皇の意向を伝える文書の様式はほかにもありますが、戦国時代には多くはこの女房奉書の様式で天皇の意向が伝えられました。稚児の脇門跡のことについては、それを認める意向なので、その旨を伝えるようにといった内容のことが書かれています。

ここでは顕尊上人のことを稚児といっていますが、脇門跡となった時、顕尊上人は六歳であり、得度もしていませんでした。顕尊との法名もまだなかったわけで、名にしても幼名の阿古丸の名で呼ばれていました。まさしく本当の稚児だったのです。

顕尊上人は勅許をえて脇門跡となっていますが、得度もしていないそうした稚児が脇門跡となるというのはかなり異例なことです。顕尊上人が脇門跡になるのには顕如上人の働きかけがありましたが、顕如上人には異例を認めさせるだけの実力があったのです。

顕尊上人が脇門跡となったことにより、以後、興正寺は脇門跡を称しましたが、この脇門跡との寺格は興正寺に限らず、ほかの宗派でも用いられた寺格です。

たとえば、同時代の比叡山では、浄土寺、曼殊院、実乗院、東南院、檀那院、積善院、毘沙門堂といった寺院が脇門跡の寺院でした。比叡山には山門三門跡といわれる、梶井門跡、青蓮院門跡、妙法院門跡の三箇寺の門跡寺院があります。梶井門跡はいまの三千院門跡のことです。脇門跡の寺格はこの山門三門跡に次ぐものです。三門跡に次ぐといっても、三門跡と脇門跡との間には格差があります。実乗院などは実乗院の門主が青蓮院の門主に仕える立場にありましたし、ほかの脇門跡にしても三門跡のいずれかの門跡の配下にありました。この実乗院について、実乗院は青蓮院の脇門跡だといい表わされることがあって、脇門跡のことをどこかの門跡の脇門跡という場合がありますが、脇門跡は門跡に准じながらも、門跡の配下に属すという立場だといえます。山門三門跡と脇門跡の門主の出自をみても、三門跡は天皇家や摂関家の子弟が門主となりましたが、脇門跡は上流貴族でありながらも、それよりは下位の貴族の家の子弟が門主となっています。

比叡山ではこの三門跡、脇門跡に次いで院家という寺格もあります。院家の寺院も門跡寺院の配下に属する寺院です。この院家も高い寺格ですが、脇門跡と院家との間には厳密な格差がありました。

顕尊上人がなった脇門跡もこれら比叡山の脇門跡と同様のものだといえます。顕尊上人は脇門跡として門跡である顕如上人に准じる立場にありながらも、顕如上人に従うべき立場にあったのです。顕如上人は父であり、顕尊上人は二男ですが、門跡と脇門跡の関係はちょうどこの父と二男の関係に対応するものです。

顕如上人が門跡になった際、本願寺住持の一族の寺で院家となった寺があって、本願寺下にも院家の寺格の寺がありましたが、当然のことながら、この院家の寺格は脇門跡よりも下位の寺格です。

(熊野恒陽 記)