「性曇上人 その一」

~名帳絵系図ノ比~

了源上人により建立された興正寺は、その後、佛光寺と名を改めて大きく発展していきます。佛光寺は了源上人以後、源鸞上人、了明尼公、源讃上人によって継承されますが、源讃上人に次いで佛光寺を継いだのが性曇上人です。性曇上人は応安元年(1368)の生まれで、源讃上人の第三子であったと伝えられます。

佛光寺は了明尼公の代のころから、真宗以外の史料にもその名が現れるようになり、大きな発展をみせていたことがうかがえますが、佛光寺はこの性曇上人の時代、より一層の大きな発展を遂げることになります。佛光寺の発展については、ただ漠然と佛光寺は繁栄していたといわれるだけですが、一口に繁栄といっても、当然、そこには段階というものがあります。その繁栄なるものにしても、段階ということを考慮に入れて、とらえられなくてはなりません。佛光寺の場合には、性曇上人の時代が一段階上の発展をみせる時代なのであり、佛光寺の繁栄ということでいえば、性曇上人の時代を一つの区切りの時代とみることができます。

性曇上人の代の佛光寺の繁栄の様子を端的に示すのが、有名な『本福寺跡書』の記述です。これは蓮如上人が現れる以前は、本願寺には参詣の人が少なく、逆に佛光寺には人びとが集っていたとして、蓮如上人を論じる際には、必ず引かれる記述です。

ソノ比、大谷殿様ハ至テ参詣ノ諸人カツテオハセス、シカルニシル谷佛光寺名帳絵系図ノ比ニテ、人民雲霞ノ如コレニ挙(『本福寺跡書』)

大谷の本願寺には参詣の人はいないが、佛光寺は名帳、絵系図の最盛期で、人びとがむらがっていたと述べられています。ここには「ソノ比」としか記されていませんが、これは前後の記述から応永二十年(1413)ころの様子を語ったものとされています。応永二十年は、性曇上人の四十六歳の時にあたっています。佛光寺には雲霞のごとく人がこぞっていたといっているのであり、性曇上人の時代に佛光寺が一層の発展をみせていたことがうかがえます。

この『本福寺跡書』は蓮如上人以前の本願寺の様子を示すものとされ、この記述から、よく蓮如上人以前の本願寺は衰微していたということがいわれます。しかし、本願寺が本当に衰微していたのかは疑問ののこるところで、『本福寺跡書』の記述から、単純に本願寺が衰微していたと論じるのは誤りであろうと思います。ならば佛光寺の繁栄ということについても疑いをもたなくてはならないことになりますが、この佛光寺の繁栄ということは事実とみてよいのだと思います。

これは時代の情勢ということからもいえることで、決して根拠のないことではありません。中世の後期は庶民の家が成立しはじめた時代といわれます。ここにいう家とは、単に建物としての家ではなく、血縁関係にもとづく生活共同体としての家のことです。家は夫婦関係を機軸に、家名と屋敷、そして家産をもち、基本的にそれが父子間で相続されていきます。こうした家が庶民層の間で成立しだすのは中世の後期になってからのことです。それまでの時代は夫婦といっても、姓は別であり、財産も別というのが普通でした。妻は婚家よりも実家と強く結びついており、妻が実家の財産を相続するということもありました。夫と妻は対等な関係にあるのであって、そうした状況下では、夫婦の共同財産を基本とする家というものは成立しがたいものでした。それが大きく変化しだして、中世の後期には、あらたに庶民の家が成立しはじめます。

佛光寺の繁栄は、こうして成立しだしたあらたな家を、家ごと門徒として取りこんでいったことによって、もたらされたものと思われます。寺と家が結びついた、いわゆる檀家が生まれてきたのであり、この檀家の発生により佛光寺の繁栄は安定したものとなったのです。

佛光寺が家を単位とした教化を行なっていたことは門徒絵系図の存在からも証明できます。門徒絵系図とは絵系図が変化して出来たもので、門徒各自の家の先祖の姿を世代順に絵で描き連ねたものです。門徒絵系図は現在も用いられ続けており、滋賀県下には大量の門徒絵系図がのこされています。用いられ方は過去帳と同じで、いわば遺影つきの過去帳だということができます。この門徒絵系図が成立したのも中世後期で、古いものでは応永三年の年付のあるものものこされています。門徒絵系図の発生は、あきらかに庶民の家の成立と対応しています。佛光寺の繁栄は、こうして成立しだしたあらたな家を取りこむことで、もたらされたものだったのです。

(熊野恒陽 記)