「性曇上人 その二」

~貴族との交流のはじまり~

佛光寺は性曇上人の時代に大きな発展を遂げることになります。性曇上人の時代は庶民の家が成立しはじめる時代であり、佛光寺はその庶民の家を家ごと門徒とすることで、大きな発展を遂げたのです。家が世代を継いで継承されるものであることからすれば、家によって支えられるということは、世代を重ねてもそのまま支援を受け続けられるということを意味します。佛光寺にとって、この性曇上人の時代は、発展に加え、安定がもたらされた時代だということもできます。

もとより庶民の家が成立するといっても、それはまだはじまったばかりのことで、性曇上人の時代に庶民の家が一斉に成立したということではありません。庶民の家の成立は中世の後半から江戸時代にかけ、緩慢に進展することであり、家の成立ということからいえば、性曇上人の時代は、その萌芽期ということになります。しかし、萌芽期であるとはいえ、佛光寺が家と結びつくことで発展を遂げたことは疑いありません。佛光寺は在家主義の立場から、夫婦の関係を認め、夫婦の関係を強調した教化をすすめていましたし、日常的にも葬送や亡者の年忌法要といった仏事にたずさわることで教えをひろげていきました。それらは家というものと、直接、関わるものであり、そうしたところからも家と結びつきやすかったのだと思います。

家の成立は本寺としての佛光寺にとどまらず、佛光寺の配下にあった道場にも影響を及ぼしています。家の成立は配下の道場にも同様の安定をもたらしましたし、家の成立によってあらたな道場の創設ということも、うながされたものとみられます。

現在の佛光寺派には、性曇上人の時代に寺が開かれたとの寺伝を伝える寺院が割合に多くあります。もとよりそれらは寺伝であって、そのすべてを信じることはできませんが、何の根拠もなく、こうした寺伝が伝えられたとも思われません。性曇上人の時代にひろく道場を創設する動きがあって、こうした寺伝が伝えられたのだと思われます。

性曇上人の時代の開基を伝える寺は、佛光寺派だけではなく、現在の興正派においてもみることができます。興正派では、かつての塚口御坊である正玄寺と、奈良県の八川照久寺が性曇上人の時代に寺が開かれたと伝えています。寺伝で寺の創建年代が語られる場合、佛光寺派の寺院と興正派の寺院とでは、創建の年代をどこにおくかで大きな違いがみられます。佛光寺派の寺院では、了源上人の時代から寺があったとするなど、概して寺の創建の年代を古い時代においています。これに対し、興正派の寺院では、蓮教上人による興正寺の再興を興正寺のはじまりとみる傾向が強かったことから、概ね蓮教上人の時代以降に寺が開かれたとの主張がなされます。興正派の寺院で性曇上人の時代の創建をいうのは稀なことといえますが、稀であればこそ、その伝えは信じられるのだと思います。

正玄寺のある猪名川流域や、照久寺のある大和の平野部はともにはやくから佛光寺の教えがひろまった地域です。庶民の家の成立という時代の状況に加え、地域の状況からいっても、道場の創設がみられたとしても不思議はありません。双方の寺伝とも信じてよいように思います。現在は語られていなくとも、性曇上人の時代に開かれたという寺は、このほかにも数多くあるものとみられます。

性曇上人の時代は、配下の道場を含めて、佛光寺に安定がもたらされた時代だということができますが、このことは性曇上人の交流関係からもうかがうことができます。性曇上人は貴族層との交流がありましたが、佛光寺の住持が貴族とのつながりをもつのは性曇上人からのことで、佛光寺と貴族層との本格的な交流はまさにこの性曇上人からはじまります。

上人と交流があったのは中御門宣輔(なかみかどのぶすけ)という公家で、上人の娘が宣輔の妻となっていました(『尊卑分脈』)。両人の間には宣豊(のぶとよ)という子があり、この宣豊が中御門家を継いでいきます。この縁により、中御門家との交流は以後も続くことになります。中御門家は藤原氏北家勧修寺(かじゅうじ)流の一家で、家格としては名家(めいか)といわれる家格にあたります。公家の家格は上から摂家(せっけ)、清華(せいが)、大臣家(だいじんけ)、羽林家(うりんけ)、名家、半家(はんけ)と分けられており、名家の家は文筆を家業として朝廷に仕えました。

性曇上人が貴族層と交流していたということは、佛光寺の家格がそれだけ向上していたということを示しています。佛光寺の安定した繁栄が家格の向上を招いたといえるでしょう。

(熊野恒陽 記)