「性曇上人 その二」

~笹の丸に飛び雀の紋~

佛光寺は性曇上人の時代に大きく発展していきます。あらたに成立してきた庶民の家を、いわゆる檀家としてとり込むことによって発展したもので、家に支えられることにより佛光寺の繁栄は安定したものとなりました。性曇上人の時代は、佛光寺の発展の上では一つの区切りとなる時代だということができます。性曇上人は永享十年(1438)、七十一歳で亡くなります。

性曇上人が亡くなったあとの佛光寺は、性善上人が引き継ぎます。性善上人は、歴代としては、第十二世にあたっています。性善上人は性曇上人の長子で、応永三十四年(1427)の生まれと伝えられます。そうであるなら、性善上人は僅か十二歳で佛光寺を継いだことになります。江戸時代に語られた伝承では、性善上人は性曇上人の養子で二条家の出であったとされていますが、もとより信じられるものではありません。二条家は摂政、関白となる摂家の家筋であり、この当時の佛光寺とでは家格が違いすぎています。

佛光寺の住持と貴族層との本格的な交流は性曇上人の時代にはじまり、性曇上人の娘は中御門宣輔の妻となっていましたが、この中御門家との関係は性善上人に引き継がれていて、上人も中御門家との交流を続けています。これは中御門家の記録にもみえるところで、宣輔の孫にあたる中御門宣胤の日記には性善上人に関する記事が記されています。

経実ハ乱以来毎月連歌会ニ来、其父堯経法印女ハ故一品ノ母也(『宣胤卿記』)

経実とあるのが性善上人のことで、その父堯経とあるのが性曇上人のことです。性善上人は中御門家で催されていた連歌の会に毎月参会していた、と記されています。あわせて性善上人の父性曇上人の娘は、一品、すなわち中御門宣輔の子で従一位となった宣豊の母であった、とも書かれています。

性善上人は連歌会に参会していたとありますが、連歌は鎌倉時代からひろく行なわれるようになったもので、性善上人の時代には貴族の邸宅でもしばしば連歌の会が催されたことが知られています。通常、連歌の会では百韻連歌(ひゃくいんれんが)といって百句の句を続ける連歌が行なわれましたが、連歌の会は、単に余興というだけではなく、参加者同士が親交を結んだり、いろいろな情報を交換する場ともなっていました。性善上人も会に参加することで参会者との親交を深め、さまざまな情報を得ていたわけであり、上人にとって会に参加することは十分に意義深いものであったと思われます。

佛光寺住持と中御門家との交流は、性善上人以後も続くことになりますが、蓮教上人が興正寺を再興すると、この関係は興正寺の住持に引き継がれ、興正寺住持が中御門家との交流を続けることになります。佛光寺と中御門家とは、まさに浅からぬ縁で結ばれていたということができますが、佛光寺に関連する記録にも中御門家との交流をうかがわせる記述がみえています。

了源上人ヨリサヽノ丸ニトヒスヽメノ御紋御免、
其時ウキモンノ□袈裟クタサルヽコト当坊一身ノコトニテソロ
(「長性院性宗覚書」)

これは佛光寺六坊の一つである西坊の性宗という僧が文明十二年(1480)に著した覚書の一節です。ここで性宗は、了源上人から笹の丸に飛び雀の紋を許されたといっています。続けて性宗は、笹の丸に飛び雀の浮き紋の袈裟を下されたのは西坊だけだともいっています。要は、笹の丸に飛び雀の浮き紋のある袈裟が西坊に下されたということで、性宗はそこから笹の丸に飛び雀の紋が許されたといっているものと解されます。ここで性宗は西坊だけが特別の紋を許されたことを誇っているのですが、問題なのはその紋が笹の丸に飛び雀の紋だということです。性宗は紋の入った袈裟を了源上人から下されたといっていますが、この袈裟は中御門家からもたらされたものとみられます。

性宗は紋を笹の丸に飛び雀の紋といっています。これは一般にいう竹に雀紋のことだと思われます。竹に雀紋を用いる家は少なく、公家では勧修寺流の藤原氏だけがこの紋を用いました。中御門家は勧修寺流に属しており、まさしくこの竹に雀紋を用いています。袈裟は佛光寺を介し、中御門家から西坊にもたらされたとみて間違いないでしょう。

中御門家が佛光寺にもたらしたものが袈裟だけにとどまるはずはありません。佛光寺と中御門家との縁は深いのであり、中御門家が佛光寺にもたらしたものや、佛光寺のために協力したことは、相当、多かったものと思われます。

(熊野恒陽 記)