「荒木門徒の展開」

源海上人にはじまる荒木門徒の門徒団は大きく発展し、ひろく各地に進出していきます。興正寺も荒木門徒の流れをくんでおり、荒木門徒の系統に属します。興正寺は荒木門徒のなかでも、源海上人から了海上人、了海上人から誓海上人へとうけつがれた法脈を伝えていて、了海上人を第四世、誓海上人を第五世としています。

第四世とされる了海上人は武蔵国阿佐布(東京都港区元麻布)に住した人で、現在も同地にある善福寺がその遺跡だとされています。善福寺は「武蔵国浄土真宗取初之地」と称し、了海上人いらい武蔵の真宗の中心となってさかえてきた寺です(善福寺由緒書)。

伝説によると、善福寺は弘法大師空海が開いた寺で、高野山を模して作られたといいます。のち親鸞聖人が善福寺をおとずれ、むかえた住持の了海上人が親鸞聖人に帰して真宗の寺となったのだといわれます。

善福寺ではこの伝説にちなんで弘法大師や親鸞聖人とのいわれを説いており、境内にある井戸は弘法大師が杖で地を突いたところ湧き出したものとされ、境内の銀杏の大木も親鸞聖人がさした杖が育ったものとされて有名になっています。

善福寺の実際の成り立ちは定かではありませんが、了海上人いらいの念仏道場であることは確かで、興正寺を開いた了源上人もこの道場にたびたび通って了海上人が著した本の伝受をゆるされたといっています。了源上人はここを「本所」とよんでおり、師の道場としてうやまっていたようです(一味和合契約状)。

了海上人には『他力信心聞書』という著述があって、了源上人はこの本をゆるされたのだといっています。このほかにも『還相廻向聞書』という本が了海上人の著述であろうといわれていて、奥書に了海と書いてあるふるい本が伝えられています(大行寺旧蔵本)。

この二つの本は内容も似ていて、師である善知識をうやまうべきことなどが強調されています。よく荒木門徒には師を仏のようにうやまう知識帰命の傾向があったのだといわれますが、これらはこうした本の内容からいわれるもので、本の内容を実際の門徒団のすがたとみなしていっているようです。

善福寺の歴代には興正寺の第五世とされる誓海上人は入っておらず、了海上人以後は別の弟子が善福寺をついでいきます。その後の善福寺の発展も大きく、関東はもとより石見国(島根県)にも善福寺の系統の寺が開かれています。

第五世とされる誓海上人は了海上人の弟子で、相模国の鎌倉に住んでおられました。興正寺の伝えでは誓海上人は了海上人の子だとも甥だともいわれますが、これはのちの時代にいわれ出したもののようです。

いまは上人の跡とされる寺などはのこっていませんが、かつては花御坊といわれる坊があったのだとも伝えられます(佛光寺西坊代々過去帳)。

鎌倉は真宗のなかでも荒木門徒の人たちが多く住んでいたことが知られており、誓海上人を中心にひろがったものとみられます。親鸞聖人が鎌倉の北条氏がおこなった一切経校合に加わったという伝承が伝えられますが、この伝承も鎌倉の荒木門徒のなかで語られていたのだろうといわれています。

これは本願寺の覚如上人の『口伝鈔』にみえる話で、北条氏のまねきで一切経の校合に加わった親鸞聖人が、その時のもてなしに出された魚肉を袈裟をつけたまま食した、というものです。

『口伝鈔』では末法の世の破戒や袈裟の功徳に話の重点がおかれますが、その前提になる北条氏の一切経校合に親鸞聖人が加わったという話は事実としてあったのではないかと、近年、注目されています。

覚如上人は関東の門弟から聞いて『口伝鈔』にこの話を書いたようですが、そのもとになった伝承は荒木門徒のなかで伝えられたものと考えられています。

この話は『口伝鈔』だけが伝えているのではなく、佛光寺本山に蔵される親鸞伝絵にも書かれています。そこには『口伝鈔』よりも簡潔に、単に聖人が一切経校合に加わったという事実だけが述べられています。

佛光寺の親鸞伝絵以外にもこの場面を描いたものとみられる絵をのせる掛幅の親鸞絵伝が伝えられていますが、それらは荒木門徒の系統の寺に伝えられており、聖人が一切経校合に加わったという話が荒木門徒のあいだで伝承されていたことをうかがわせます。荒木門徒ではこの伝承が大切にされていて絵伝に取り入れたものとみられます。

(熊野恒陽 記)