「光教上人 その一」

~門跡になったという伝承~

性曇上人の時代、大きな発展を遂げた佛光寺は、性善上人に引き継がれた以後も、発展を続けることになります。よく本願寺に蓮如上人が現れる以前には、佛光寺は繁栄していたといわれますが、繁栄ということでいえば、性曇上人と性善上人の時代を佛光寺の繁栄の最盛期ということができます。

性善上人のあと、佛光寺は光教上人へと引き継がれます。光教上人は性善上人の弟で、永享二年(1430)の生まれと伝えられます。性善上人とは三歳違いの弟ということになります。光教上人は、歴代としては興正寺の第十三世とされています。

光教上人を歴代の十三世とするといっても、興正寺が光教上人を歴代に加えたのは明治時代になってからのことです。それまでの興正寺では光教上人を歴代には入れていませんでした。一方で、興正寺と同じ系統である佛光寺では、江戸時代を通じ、光教上人を歴代に数えていました。興正寺でもそれに倣い、明治時代となって上人を歴代に加えました。

興正寺と佛光寺の所伝が違うというのも不思議な話ですが、興正寺が光教上人を歴代としていなかったのは理由があってのことです。興正寺と佛光寺は、蓮教上人が興正寺を再興することにより分かれますが、この時、蓮教上人が興正寺を興したのに対し、光教上人はそのまま佛光寺にとどまります。その際に佛光寺に生じた混乱を収めたのも光教上人で、当時から佛光寺では光教上人を「中興開山」と呼んでいました(長性院蔵「絵系図」)。このため興正寺では、上人を歴代に加えることはありませんでした。

佛光寺の伝えによると、光教上人が佛光寺を継いだのは長禄元年(1457)のこととされています。兄性善上人は三十一歳で、いまだ健在でしたが、性善上人が隠居したために光教上人が佛光寺を継いだといわれます。性善上人はその後もながく存命しています。

光教上人の事績としては、さまざまなことが伝えられていますが、佛光寺では上人について極めて特異な伝承を伝えています。それは光教上人の時代に佛光寺が門跡寺院となったというものです。

人皇百四代後土御門院御宇寛正六乙酉年始賜門跡号(『佛光寺法脈相承略系譜』)

寛正六年(1465)、門跡号を下され、門跡寺院となったのだといっています。ここにはそれが寛正六年のいつのことかは書かれていませんが、ほかの記録ではそれを三月のこととしています。これが事実であれば佛光寺は真宗で最初の門跡ということになります。この伝承は佛光寺が強調するもので、江戸時代の後期以降、佛光寺は真宗最初の門跡は佛光寺だとの主張をくり返しています。しかし、さすがにこの伝承を事実とすることはできません。実際に佛光寺が門跡として扱われるようになるのは、光教上人の時代などではなく、江戸時代になってからのことです(「妙法院文書」)。

光教上人の時代に佛光寺が門跡となったというのは事実とはいえませんが、しかし、ここで佛光寺がかかげる寛正六年という年にはいささかの意味があります。この寛正六年は本願寺に対して比叡山が弾圧を加えた、いわゆる寛正の法難が起きた年にあたっています。これは蓮如上人の継職によって活動を活発化させた本願寺に対して比叡山が加えた弾圧で、この弾圧により本願寺は破却されてしまいます。この時の弾圧は激しく、比叡山は二度にわたって本願寺を襲撃しています。最初の襲撃は一月で、本願寺はそれによっても多大な被害をうけましたが、三月、比叡山は再び本願寺を襲撃し、この襲撃により本願寺は完全に破却されてしまいます。佛光寺が門跡となったという寛正六年の三月は、まさにこの本願寺が破却された月にあたっています。

佛光寺が門跡になった年として、この寛正六年をかかげているのは偶然ではありません。寛正六年の弾圧で実際に襲撃をうけたのは本願寺だけですが、この弾圧は佛光寺にも関係していて、当初は佛光寺も弾圧の対象となっていました。この弾圧の動きに対しては、佛光寺は天台宗の妙法院門跡の仲介を得て、弾圧を回避しています(「佛光寺文書」)。妙法院は佛光寺の本寺で、これ以後も、代々、佛光寺を保護しています。

佛光寺が弾圧の対象からはずされたということは、比叡山が佛光寺の従来通りの活動を認めたということを意味します。佛光寺はそれに関連づけ、寛正六年を門跡となった年としているものとみられます。活動を認められたということが、門跡号を許されたとの連想を招いたのでしょう。

(熊野恒陽 記)