「光教上人 その二」

~門跡の候人~

寛正六年(1465)、比叡山は本願寺に弾圧を加えます。これは蓮如上人の継職によって活動を活発化させた本願寺に対し、比叡山が加えた弾圧で、この弾圧により本願寺の堂舎は破却しつくされます。この弾圧は、本願寺の側からは寛正の法難と呼ばれています。

寛正六年の比叡山の弾圧は、蓮如上人に対する弾圧であり、本来ならば、比叡山の圧力は本願寺に対してのみ加えられるべきものでしたが、当初、比叡山は弾圧の対象をひろげ、専修寺や佛光寺も弾圧の対象としていました。この弾圧の動きに対し、専修寺は、本願寺と専修寺は法流が別であり、混同すべきではない、との弁明を比叡山に申し入れ、宥免を得ています。佛光寺も妙法院門跡を介して、同様の弁明を比叡山に申し入れ、宥免を得ました。

佛光寺の場合には、妙法院門跡が申し入れの仲介をしていますが、これは妙法院が佛光寺の本寺であり、本寺として佛光寺を保護する立場にあったことからなされたものです。妙法院は天台宗の門跡寺院であり、その寺を真宗の佛光寺が本寺と仰いでいるのは、いささか奇異なことにも思えますが、中世では宗派を異にする寺院同士が本寺と末寺の関係を結ぶことは決して珍しいことではありませんでした。末寺の側は、寺の権威づけや保護を求め、宗派の違いを越えて有力な寺を本寺としましたし、本寺の側も、末寺をいわば財産視して、宗派の違う寺をも末寺としていきました。本寺が末寺に求めたのは、末寺銭や本寺への勤仕で、これに対し、末寺の側は本寺からの保護をうけました。

佛光寺と妙法院との関係もこうした関係で、比叡山に対し、佛光寺の申し入れを仲介した際にも、妙法院は候人(こうにん)という語を用いて、妙法院と佛光寺との関係をいい表しています。

佛光寺之事、先年本願寺破却砌、可及其沙汰之処、為妙法院殿、於彼寺者…
当門跡候人之由、被仰分之間、寛宥之処(「佛光寺文書」)

これは寛正の弾圧から十六年経った文明十三年(1481)に比叡山が発した文書の一節で、ここに寛正の弾圧に際しての、妙法院と比叡山の遣り取りがみえています。ここで比叡山は、先年の本願寺破却の際、佛光寺も同様に破却しようとしたが、妙法院門跡が佛光寺は妙法院の候人であると弁明してきた、だから許したのだ、といっています。比叡山との遣り取りで、妙法院が佛光寺を候人といっていたことが知られます。

候人とは、門跡に仕える者との意をもつ語で、中世に成立した書物にも「候人ハ門跡ニ召仕ハルル惣衆ヲ云也」との記述がみられます(『蹇驢嘶余』)。門跡に召しつかわれる惣衆を候人というとありますが、候人との語の用いられ方はひろく、門跡に仕えた僧侶を候人というだけではなく、門跡寺院に仕えた坊官や寺侍も候人といわれましたし、門跡のもとに出入りを許された者も候人といいました。要は門跡の配下にある者ということで、多分に世俗の被官という語に近い意味合いを含んでいます。

妙法院と佛光寺の関係は、この候人という語に端的に示されています。佛光寺は妙法院門跡の配下にあって、妙法院に仕えていたのであり、妙法院の側は本寺として佛光寺を保護する立場にあったのです。

妙法院は、代々、親王が入寺する門跡寺院であり、伝領される荘園や末寺は諸国に存在しています。本寺として仰ぐには、最高の格式をそなえた寺だということができます。現在、妙法院は京都東山の山麓、現今の七条通りと東大路通りが交わる所にありますが、これは江戸時代になって移転したものであり、もとは現在地よりさらに北側にあったことが知られています。もとの所在地は祇園社のやや南西にあたる場所だといわれています。妙法院はその地にあって、諸国に荘園や末寺をひろげていきますが、合わせて近隣の寺院や神社を配下におさめ、地域的な支配力も強めていきます。三十三間堂で知られる蓮華王院や、東山山麓の新日吉社などは妙法院の配下におかれた寺社です。佛光寺は妙法院のすぐ近く建っており、佛光寺のあった渋谷は、まさに妙法院が支配力をひろげていた地域にあたっています。佛光寺が妙法院を本寺としたのは、こうした地域的な関係にもとづいてのこととみられます。

寛正の弾圧があったころの佛光寺は、堂宇もととのい、境内には建造物が立ち並んでいたといわれます(「文明十五年佛光寺造立奉加帳」)。そうした繁栄も、一端には本寺妙法院の保護があって、もたらされたものといえます。

(熊野恒陽 記)