「光教上人 その三」

~寺院、甍を並べ~

光教上人は長禄元年(1457)に佛光寺を継いだと伝えられます。佛光寺は、その後、現在の興正寺と佛光寺とに分かれますが、光教上人が佛光寺を継いだのは佛光寺が興正寺と佛光寺に分かれる前のことであり、光教上人の継職の時には、佛光寺はいまだ大きな勢力を誇っていました。佛光寺配下の末寺や道場の数も相当な数に達していたと考えられ、地理的なひろがりにおいても、かなり広範な地域にわたって末寺や道場が存在していたものとみられます。

これに対し、本願寺の側からは、もともとの佛光寺の末寺の数は少なかったとする主張が伝統的に繰り返されています。この主張は直接には興正寺の末寺について述べたもので、本願寺は、後年の興正寺がかかえた末寺の多くは興正寺が本願寺教団に参入したのちに獲得したものであり、佛光寺以来の末寺は少なかったといっています。佛光寺以来の末寺が少ないのであれば、もとの佛光寺の末寺も少なかったということになります。しかしながら、この主張はかなり無理のある主張です。この主張は興正寺の末寺は本願寺のもとで獲得したものだという前提に立って述べられたものですが、そもそもこの前提に無理があります。興正寺の末寺が多かったのは、もともと佛光寺時代から末寺が多かったためとみるのが自然なことで、あえてそれを本願寺のもとで獲得したとみる必要はありません。この主張はあまりに偏った主張だといわなくてはなりませんが、本願寺がこうした主張をするのも理由があってのことです。この主張は江戸時代にいい出されたものですが、江戸時代は興正寺が本願寺からの独立を進めていた時代です。興正寺の独立の動きに対し、本願寺は興正寺を本願寺下で発展した寺と位置づけようとして、意図的にこうした主張をいい出しました。同様の主張は現在もなお繰り返されていますが、もとの佛光寺に末寺や道場が多かったことは疑いありません。

佛光寺が多くの末寺をかかえ、大きな発展をみせていたことは、佛光寺の寺としての規模にも反映していて、光教上人が継職した時には、佛光寺には建造物が立ち並んでいたといわれます。佛光寺の堂舎は光教上人が寺を継いだのちに焼失しますが、再建にあたって著された奉加帳には、焼失前には、寺院、甍を並べていたと記されています。

当寺ノ元記ヲタツヌルニ、山科興正寺ヲイマノ比叡渋谷竹中ノ在所ニ引移シテ、一宇ヲ建立シ、本尊ノ告勅ニマカセテ佛光寺トコレヲ改ム、ソノ砌忝ナク佛光寺ハコレ一向専修ノ棟梁タルヘシト云倫(綸)旨ヲ蒙リ、并高氏将軍ノ御祈願寺ニ任セラル、
コレニヨリテ、代々将軍ノ御判ヲナサル故ニ、寺院甍ヲナラヘ門葉袂ヲ重ヌ
(「文明十五年佛光寺造立奉加帳」)

寺院、甍を並べとは建造物が立ち並んでいたということです。佛光寺の建造物としては、佛光寺自体の建物があっただけではなく、佛光寺の山内寺院である佛光寺六坊の建物なども佛光寺と並んで建っていました。寺院、甍を並べとは、そうした状況をいっているものと思われます。このほかにも佛光寺の門前には門下の俗人たちが住んでいたらしく、門前にはその家屋なども建てられていたようです。佛光寺が大きな規模を誇っていたことは間違いないでしょう。

焼失前の佛光寺の様子を詳しく知ることはできませんが、六坊のあった場所はおおよそながらうかがうことができます。現在の佛光寺六坊はそれぞれ院号を称していますが、これはのちの時代となって称されたもので、かつては南坊、新坊、西坊、奥坊、角坊といった坊号を称していました。新坊の新以外は、南、西などと単純に位置関係を表す坊号が用いられています。こうした素朴な名づけ方からいっても、これは坊の成立とともに名づけられたものであり、そのまま六坊があった場所を示しているものと思われます。現在の六坊のなかには、佛光寺山内に坊を設けたのは佛光寺が渋谷から五条坊門へと移転した以後のことだと伝える坊もあり、必ずしも全ての坊号が渋谷での所在地にもとづいているとはいえませんが、六坊の坊号がおおむね渋谷での坊の所在地を示していることは確かなことと思います。もとの佛光寺の山内寺院で、のちに興正寺の末寺となる寺に端坊、東坊という寺があり、やはり位置関係を表す坊号を用いています。位置関係を表す坊の名は興正寺の分立以前からあった古い名なのであり、坊の名が所在地を示していることは間違いないといえるでしょう。

(熊野恒陽 記)