「光教上人 その四」

~渋谷佛光寺の寺地~

光教上人の継職は、いまだ佛光寺が大きな勢力を保っていた時代になされています。渋谷の地には佛光寺の堂舎を中心に、山内寺院の建物が並び立っており、佛光寺は建造物の規模においても、大きな規模を誇っていました。了源上人が山科の興正寺を渋谷へと移し、興正寺の名を佛光寺と改めてから、光教上人が佛光寺を継ぐまでには、およそ百三十年の年月が経過しています。佛光寺の誇った大きな勢力も百三十年の年月をかけ、築き上げられたものということができます。

百三十年という年月は長い年月です。その間の佛光寺の変化には大きなものがあり、当初、渋谷に移ったころの佛光寺と、光教上人が継いだ際の佛光寺とでは、相当に大きな違いがみられます。建造物の規模にしても、建物は時代とともに建て増されていったものであり、当初の佛光寺と光教上人が継いだ時の佛光寺とでは大きく違っていますが、それとともに佛光寺のあった渋谷の寺地の広さも、了源上人の時代と光教上人の時代とでは大きく違っているものと思われます。

了源上人の時代は、いくら発展がみられたにしても、まだ佛光寺が開かれたばかりの時代です。その時代の佛光寺に広い寺地があったとは思われません。これに対し、光教上人の時代には、佛光寺はかなり広い寺地をもっていたとみられ、その徴証も認められます。

佛光寺は、光教上人のあとの蓮教上人の代となって、興正寺と佛光寺に分かれますが、その際、興正寺が山科へと移るのに対し、佛光寺はそのまま渋谷にのこります。佛光寺は、その後、百年ほど渋谷にあって、天正十四年(1586)ころに現在の五条坊門の地へと移ります。この移転は豊臣秀吉の命によるもので、秀吉は渋谷に大仏を造るために、その地にあった佛光寺を移転させています。移転先として五条坊門が選ばれたのも秀吉の命によるものですが、佛光寺の伝えによると、この移転に際して、佛光寺は秀吉から五条坊門に百間四方の土地を与えられたとされています。

百間四方であれば、一万坪の土地ということになります。現在の佛光寺本山の境内地はその半分ほどしかなく、一万坪では佛光寺の境内の大きさと合わないことになりますが、この百間四方の土地を与えられたという伝えは正しいのだと思います。佛光寺の移転に際しては、佛光寺だけが移ったのではなく、六坊など山内寺院も佛光寺とともに移りましたし、渋谷の佛光寺の門前に住んでいた門下の俗人たちも、佛光寺と一緒に移っています。この百間四方の土地には、それら山内寺院や俗人に分割された土地も含まれています。

五条坊門の一万坪の土地は、渋谷の寺地の代替地として与えられたものです。そうであるならば、渋谷にはそれに見合っただけの寺地があったということになります。渋谷の寺地がはたしてどれ位のものであったのかは正確には判りませんが、一万坪とはいわなくとも、ある程度まとまった広さがあったことは間違いないでしょう。佛光寺の移転は光教上人の継職から百年以上ものちのことであり、移転の際に渋谷にある程度の寺地があったにしても、必ずしもそれが光教上人の時代からあったということにはなりませんが、光教上人の時代以後の佛光寺は、興正寺が分立したことにより、明らかに勢力を失っていきます。渋谷の寺地は光教上人の時代からあったものとみるべきでしょう。

光教上人の時代に、佛光寺が代替地一万坪に相応する寺地をもっていたとなると、やはり佛光寺は相当に発展していたということになります。同時代の本願寺の敷地はわずかに三百坪ほどです。本願寺の場合には、敷地の取得に関する記録がのこされており、正確に敷地の広さを知ることができます。それによると、本願寺は、当初はほぼ一戸主(へぬし)といわれる広さで、その後、同じく一戸主の土地が買い足され、当初の倍の広さとなっています。戸主は平安京で用いられた土地単位で、一戸主はおよそ百四十四坪に相当します。本願寺の敷地の広さは長く変わることがなく、蓮如上人が本願寺を継いだ時にも、本願寺の敷地は三百坪ほどでした。

佛光寺の寺地は本願寺の敷地よりはるかに大きかったわけで、この寺地の大きさが当時における佛光寺の発展というものをよく示しています。この寺地には建造物が立ち並び、佛光寺はまさに隆盛を誇っていたのです。しかしながら、その建物もやがて戦火によって全焼することになります。火災があったのは、応仁二年(1468)の八月二十六日のことと伝えられています。光教上人の継職から十一年後、上人が三十九歳の時のことです。

(熊野恒陽 記)