「信長との戦い その四」

~越前一向一揆~

織田信長は天正二年(1574)九月、長島の一向一揆を壊滅させると、翌天正三年(1575)八月、今度は越前国の一向一揆を滅ぼすため、越前へと向かいます。越前は天正二年の二月ころから一揆勢が国を支配するようになっており、信長はその一揆勢を滅ぼそうとしたのです。

そもそも越前は、一旦は信長によって平定された地です。信長は天正元年(1573)八月、越前の朝倉義景を倒しています。越前は朝倉義景が支配していた地であり、義景を倒したことで、越前は信長が支配するようになりました。しかし、信長の支配は長くは続かず、越前はその後、一揆勢が支配する国になっていきました。

朝倉義景を倒したのち、信長は前波吉継を越前の守護代としました。吉継は義景の家臣でしたが、寝返って信長方となった人物です。吉継はのち桂田長俊と改名しています。この桂田長俊は天正二年一月、かねてから長俊に不満をいだいていた富田長繁によって殺されます。富田長繁は長俊に不満をもつ人びとを糾合して長俊を襲いましたが、長繁らは長俊を殺害しただけではなく、別の場所にいた信長の家臣たちをも襲い、家臣を越前から追放しました。守護代を討ち、信長の家臣を追放したことで長繁が越前を押さえることになりましたが、今度は、長繁と長繁に従って桂田長俊を倒した人たちとが対立するようになります。長繁に従った人びとは勢いを増していき大きな集団になっていました。長繁と対立した集団は、天正二年二月、集団内に多くの本願寺門徒がいたことから、集団の大将に加賀から本願寺の家臣である七里頼周を招きます。頼周は加賀一向一揆の指導者です。頼周を大将としたことで集団は一向一揆の性格を帯びるようになりました。

加賀からはさらに下間頼照、杉浦玄任が来て、一揆に加わります。二人とも本願寺の家臣です。一揆は完全に一向一揆となりました。一揆勢は長繁を倒すとともに、越前に勢力をもっていた武将たちをも倒していきます。一揆勢は諸勢力を制圧し、越前を平定します。越前はこうして一揆勢の支配する国となりました。

一揆勢が平定したのちの越前では下間頼照が守護代となり、杉浦玄任が大野郡、頼照の子の下間和泉が足羽郡、七里頼周が丹生郡を支配するようになりました。しかし、実際に下間頼照たち本願寺の家臣による支配がはじまると、人びとは家臣たちに不満をいだくようになります。頼照たちは他所から来た者たちで、本来、越前とは関わりのない者たちです。そうした者たちが国を支配するということが不満でした。やがて不満から人びとが家臣を襲撃するという事件が発生します。それも続けて何度も起きました。支配者と一般の人びととが対立し、国の内部が分裂していったのです。

天正三年八月十四日、信長は敦賀に到着します。一揆勢は峠や海岸などの要所に砦を構え、守りを固めていました。信長はこれらの砦を次つぎと陥落させ、兵を進めていきます。これらの砦には本願寺の家臣や坊主たちが人びとを率いて詰めていましたが、支配者と人びとが対立しているという状況から、動員に従わなかったり、途中で逃げ出したりする人びともみられました。士気はあがりませんでした。

十五日の夜、信長勢は一揆の本拠地である府中に攻め入ります。信長勢は府中で千五百人の首を斬り、その近辺でも五百人ほどを殺害しました。府中の町は死骸ばかりで空き地がなかったともいわれています。

越前はきわめて短い期間で制圧されました。こののちは一揆の残党狩りがはじまります。越前の各地で大勢の人びとが捕らえられ首を斬られました。

生捕と誅せられたる分、合わせて三、四万人にも及ぶべく候歟(『信長公記』)

一揆勢の総大将をつとめたのは、守護代である下間頼照です。この頼照は逃げのびており、信長勢は頼照を追っていました。頼照は府中近辺の里のあばら家に隠れていました。頼照は加賀に逃げようと、乞食に扮装して里を出ましたが、途中で村人に見つかります。乞食の扮装に不自然なところがあったからです。頼照は捕らえられ首を斬られました。頼照の首を斬ったのは本願寺門徒と対立していた高田門徒の人たちでした。

信長勢は余勢をかって、加賀国にも侵攻します。長島の一揆に続き、越前の一揆が制圧され、本願寺の劣勢は明らかです。本願寺は信長に和睦を持ちかけました。天正三年の十二月、本願寺と信長は誓紙を交わし、再度、和睦します。

(熊野恒陽 記)