「信長との戦い その五」

~毛利輝元と連携して信長と戦う~

天正四年(1567)四月、織田信長の軍勢は大坂の本願寺を攻撃します。本願寺と信長は天正三年の十二月に和睦していましたが、和睦は破られました。

本願寺と信長が和睦したといっても、顕如上人は信長を信用しておらず、和睦の成立後も信長に対抗する準備を進めていました。本願寺が進めていたのは安芸国の毛利輝元との連携です。この毛利輝元と本願寺を結びつけたのは、信長に追放された室町幕府の将軍足利義昭です。義昭は信長を倒し、幕府を再興するために、信長に敵対する勢力の糾合をはかっていました。こうして本願寺と輝元は義昭を仲立ちとして連携することになりました。信長を倒そうとする義昭の呼びかけには、越後国の上杉謙信も応じています。謙信と本願寺は長く敵対関係にありましたが、本願寺はこの謙信とも義昭を介し連携します。本願寺が毛利氏、上杉氏との連携を強め、信長に敵対することが明白になったため、天正四年四月、信長は大坂を攻めたのです。

信長は軍勢を分け、三方向から大坂を攻めました。対して、本願寺は大坂の周囲の守りを固め、五月初めには、信長勢に反撃を加えて、有力な武将や多くの兵たちを討ちとっています。この時、信長は京都にいましたが、これを聞くと急いで救援に駆けつけ、以後は信長自身が軍勢の指揮をとることになりました。

信長が指揮をとると、信長勢は勢いを盛り返し、ついには大坂の町のすぐ近くにまで攻め入ります。本願寺側は二千七百人ほどが討ちとられています。この後、信長は大坂の周囲に十箇所の砦を構え、配下の者を詰めさせます。本願寺を包囲し、食料や武器の搬入を断とうとしたのです。本願寺の側も周囲に五十一箇所の出城を設け、信長に対抗しました。以後、大坂での戦いは、双方が対峙する持久戦となっていきます。

信長勢は陸路を塞ぐとともに海路の警備にもつとめましたが、七月、毛利氏の船団は海上で信長方の船団を破ると、船を木津川の河口部に入れています。船には大量の食糧が載せられており、食料は大坂へと運ばれました。食料の供給は本願寺には大きな助けとなるものです。毛利氏の援助はこの後も続けられます。

翌天正五年(1577)の二月、信長は紀伊国の雑賀を攻めます。雑賀は本願寺門徒が多くいた地です。雑賀の門徒衆は武力に秀でており、信長との戦いでも、各地に動員され、しばしば信長勢と戦っています。雑賀は住民たちが集団で自治にあたっていた地で、住民たちははやくから武装化をすすめていました。雑賀の住民は当時から鉄砲を使うことで有名でした。そのため雑賀の門徒衆は武力に秀でていたのです。この雑賀地域と本願寺との関係は複雑で、門徒は門徒として本願寺と関わっていましたが、門徒以外の人たちも門徒衆を中心に結集し、全体として本願寺に味方していました。地域としてまとまり本願寺に加担したのです。

地域として本願寺に加担したといっても、関係はさらに複雑です。雑賀の住民たちの内部には対立があり、その対立から一部の勢力が信長に味方するということもあったのです。内部には本願寺に敵対する者もいたということです。天正五年二月、信長が雑賀を攻めたのも、対立から内部が二つに分かれ、一方が信長に味方したことから、信長はこれに乗じて雑賀に攻め入ったのです。信長に味方した勢力は雑賀で信長勢の案内をつとめています。この時の信長の攻撃は三月まで続き、住民たちは信長に降伏しました。

こののちの天正五年九月、本願寺と連携した上杉謙信は能登国を平定します。次いで謙信は加賀国で信長勢を破っています。本願寺は上杉謙信と毛利輝元とで信長を倒すことに期待していましたが、その謙信は天正六年(1578)三月に死亡します。謙信の死により、北陸では信長の勢力が強まり、本願寺を支えた加賀の一向一揆もこの後は力を弱めていきます。

謙信の死亡後の天正六年の三月末、羽柴秀吉は播磨国の三木城を攻めました。播磨は西に支配をひろげようとする織田信長と、東に支配をひろげようとする毛利輝元の勢力がぶつかり合う地で、双方は播磨でせめぎ合っていました。三木城の別所長治は信長方についていましたが、離反して輝元方についたため、秀吉は三木城を攻めたのです。播磨に勢力をのこしたい輝元は長治を援助します。そのため城は落ちませんでした。 

顕如上人もこの播磨の動向を気にかけていました。本願寺は毛利氏に大きく頼っています。毛利氏が不利な状況になれば、そのまま本願寺も不利な状況へとおちいっていくのです。      

(熊野恒陽 記)