「廻り念仏」

~宮念仏堂神楽~

明治時代、佛光寺では『渋谷歴世略伝』と題した本が編まれています。この本は佛光寺の歴代の伝記をまとめたもので、親鸞聖人から第二十五世の真達上人までの伝記がとり上げられています。佛光寺の歴代は、途中までは興正寺の歴代と重なるわけで、重なっている歴代については、この書でも興正寺に伝えられるものと同様の伝記が記されますが、伝記によっては興正寺では伝えられない事柄を記したものもみられます。その一つが佛光寺と興正寺がともに第十二世とする性善上人の伝記で、この書の性善上人の項には上人の事績として佛光寺だけが伝える事柄が載せられています。

宝徳享徳際、近江国疫癘流行、老幼継踵罹危、宇津呂郷十三村民、来請法救、
師授以恵心僧都筆方便法身尊形、及現世利益和讃若干巻、懇諭還、
村民奉掲於八幡宮祠拝殿、少長相集、専修念仏、疫癘立消、村民感激、至今為永式

宝徳、享徳のころ(1449~1455)、近江の国で疫病が流行り、老人も子供も次つぎに病に罹った。宇津呂郷にある十三の村は佛光寺に救いを求めたので、性善上人は阿弥陀如来の絵像と現世利益和讃を与えた。村びとが八幡宮の拝殿に絵像を掛けて念仏を行じたところ、病はたちまちに止んだ。村びとは喜び、以後、この行事を永く続けることにした。

八幡宮の拝殿に絵像を掛けるという特異な行事のことが述べられていますが、佛光寺がこうした行事のことを述べるのは、佛光寺がそうした行事と関係していたからです。この行事は実際に行なわれているもので、まさに佛光寺が関わって続けられてきた行事です。『渋谷歴世略伝』はそれを性善上人の時代にはじまったものと想定して、この行事を上人の事績として載せたものです。現実にこの行事が性善上人の時代にはじまったのかは定かではありませんが、古くから続いているもので、現在もなお続けられている行事です。

ここにいわれる宇津呂郷とは現在の近江八幡市の地名で、八幡宮とは同地の日牟礼(ひむれ)八幡宮のことを指しています。この比牟礼八幡宮では毎年五月に、十三幅の阿弥陀如来の絵像を拝殿に掛け、神楽を奏して、念仏する十三仏祭という祭りが行なわれています。この祭りが『渋谷歴世略伝』にいわれる行事です。絵像が十三幅なのは、宇津呂郷の十三の村が村ごとに絵像を保有していたからで、祭りにはそれが集められて十三幅となります。その十三幅の絵像はまさしく佛光寺から下された絵像です。

祭りは年に一度のことですが、これには祭り以外にも一連の行事があって、十三の村では毎月、持ち回りで集まり、絵像を持ち寄って念仏を行なっています。集まるのは原則十五日で、これを廻り念仏といっています。現在は、参加を止めた村があったり、絵像が村から個人の所有となったものがあったりと、本来のかたちは失われていますが、行事としては続いています。

これらの行事は佛光寺と日牟礼八幡宮の信仰が結びついて生まれたといえますが、この二つを結びつけたのが現在の佛光寺八幡別院、西方寺です。西方寺は山号を比牟礼山といい、前身は日牟礼八幡宮と密接に関係する寺だったといわれています。廻り念仏はこの西方寺でも行なわれており、かつて人びとは日牟礼八幡宮とこの西方寺の行事を指して、「宮念仏(みやねんぶつ)、堂神楽(どうかぐら)」といったと伝えられています(『近江輿地志略』)。

廻り念仏は、『渋谷歴世略伝』では性善上人の時代にはじまったとされますが、これには別の伝えもあって、性善上人の弟の光教上人の時代にはじまったとするものもあります。延徳年間(一四八九~九二)に疫病が流行り光教上人が絵像を下したとするもので、一般にはこちらの方がよく知られており、普通は廻り念仏は光教上人の時代にはじまったといわれます。どちらにしても古い行事であることは間違いなく、使われている絵像にも中世に作られたものがのこされています。

廻り念仏が十三の村で行なわれるとはいっても、これら十三の村の住民は必ずしも佛光寺の檀家ではありません。共通するのはこの十三の村が日牟礼八幡宮の氏子であるということです。ここからすれば、廻り念仏の主体は八幡宮の側にあるのであって、廻り念仏は八幡宮の信仰圏に佛光寺の信仰形式が取り込まれて発生したものといえます。病を除くとの功徳も佛光寺が直接に説いたものではないのでしょうが、現実に病を除くと受けとめられている以上は、佛光寺にはそうしたものと結びつきやすい性質があったことも認めなくてはなりません。

(熊野恒陽 記)