まず本願寺の阿弥陀堂が建立された

 天正十三年(一五八五)五月三日、本願寺は家臣を大坂城の羽柴秀吉のもとに派遣しています。四月の末、秀吉から天満の地を本願寺に寄進する意向のあることを伝えられたことから、その地を受けとるため家臣が派遣されたのです。翌五月四日、秀吉は天満へとおもむき、自らが縄打ちをして寄進する地を決めました。

  秀吉御自身御出有テ、縄打ヲセラルル也、中嶋天満宮ノ会所ヲ限テ東ノ河縁マデ七町、北へ五町也・・・先以当分ハ七町ト五町也、元ノ大坂寺内ヨリモ事外広シ(『貝塚御座所日記』)

本願寺に寄進される地は、西は中嶋天満宮の会所から東は川までの七町、南北は五町の地で、もとの大坂の寺内町よりも広大な地であったとあります。中嶋天満宮とは現在の大阪天満宮のことで、川というのはいまの大川のことです。天満という地名はこの天満宮に因んで生じたものです。ここには中嶋天満宮とありますが、中嶋とはこの地を指す古い地名です。中嶋は中

島と表記されることもあります。天満の地名は本願寺がこの地に移転したころから使われ出した地名で、その後、中島の地名は次第に使われなくなり、天満の地名が広く使われるようになっていきます。

天満は大阪城の北側にあたり、大川を挟んで大坂城の対岸に位置しています。大坂城からもさほど離れているわけではありません。秀吉は大坂城の建造とともに城下町としての大坂の町の造成を進めますが、この天満の地も秀吉によって造成が進められた地域です。江戸時代、天満は住民も増え、天満の町組である天満組は、大坂城下の別の町組である北組、南組とともにいわゆる大坂三郷を形成するにいたります。

天満の地の寄進後、本願寺はすぐに堂舎の建造をはじめます。建造がはじまったのは五月二十一日のことです。まずはじめられたのは阿弥陀堂の建築で、このほかには亭などの建築もはじまりました。堂舎の建造に際し、門末には懇志の提供が求められました。

こうして堂舎の建造がはじまったのちの六月十四日、顕尊上人は大坂城で秀吉と対面しています。

今度天満宮ノ寺内屋敷之普請、彼是、興門様六月十二日ニ大坂ヘ御越也、少サシアヒ有テ十四日ニ御見参、於広間飯中酒一遍、又御小座敷ニテ御茶あり、夏タルニヨツテ悉立具ヲ取はなされて一段猶見事也、於広間御見参也、御門跡様ヨリ錫十対、興門様御自分越後廿端、刑部卿御供、十五日ニ御帰寺也(『貝塚御座所日記』)

 顕尊上人が秀吉と対面したのは天満での堂舎の建造について報告するためで、この時には、顕尊上人は本願寺側を代表する立場で秀吉と対面しました。顕尊上人は六月十二日に大坂城に着いたものの、さし障りがあって、十四日に秀吉と対面したとあります。対面の場は広間で、広間では食事も振る舞われました。その後、小座敷で茶の接待を受けています。夏なので建具が外され、なおのこと見事な座敷の様子であったとあります。対面に際し、顕如上人から錫の器十対、顕尊上人から越後の織物二十反が秀吉に贈られました。

 この後、天満では八月十日に阿弥陀堂の立柱式があり、八月三十日となって、顕如上人、教如上人、顕尊上人が親鸞聖人の御影とともに天満へと移ります。一行は船で貝塚から天満へと向かいました。途中の堺の浦には多くの人びとが見物に詰めかけたといいます。

 天満への移転は堂舎の建造がはじまってからわずかに三箇月後のことです。建造物の整備はいまだ十分には進んでいませんでした。

諸候人已下・・・私宅モチタルモノナシ、各不弁之式不及言語(『貝塚御座所日記』)

 天満には本願寺に仕えていた家臣たちの私宅もなく、きわめて不便であったとあります。阿弥陀堂は建造中であったものの、御影堂もありませんでした。

 こののちの九月六日、阿弥陀堂の移徙の祝いが行なわれています。阿弥陀堂が完成したのです。天正十三年は閏八月があったので、阿弥陀堂は五月の着工からはほぼ六箇月、八月の立柱式からはおよそ二箇月で完成したことになります。この阿弥陀堂は天満の地の寄進後、早急に建立されたもので、それほど立派なものではありませんでした。

  まづまゞかりに草堂をとり立候・・・余聊爾の体、ひとつは外聞もいかゞにて候(『顕如上人文案』)

 天満の阿弥陀堂については、住持である顕如上人自身が、急いで建てたものであり、あまりに粗末で外聞も気にかかる、といっています。 (熊野恒陽 記)