興正寺の本堂も建立される

 顕尊上人が父顕如上人とともに天満へと移ってから程なくした天正十三年(一五八五)十月七日、顕尊上人と妻の祐心尼との間に男子が生まれます。顕尊上人のあとに興正寺を継ぐのちの准尊上人です。のちに准尊上人となるこの子には八十丸との幼名が付けられました。准尊上人の祖父である顕如上人と祖母の如春尼は、折から湯治に出かけていましたが、孫の誕生の知らせを聞いて、急遽、天満へと戻ってきました。准尊上人は顕尊上人が二十二歳の時の子です。

 こののちの天正十四年(一五八六)の正月二十三日、顕如上人が天満の顕尊上人の居所を訪れています。興正寺の住持の家と本願寺の住持の家との習わしとして、正月に興正寺住持が本願寺住持を招いて点心を振る舞うという行事が行なわれてきましたが、その行事のため顕如上人は顕尊上人のもとを訪ねたのです。

  興門様へ御せちニつきて御成、近年乱世ニヨツテ

  無其儀、当年旧儀再興之体也(『貝塚御座所日記』)

 本願寺の住持が正月に興正寺を訪れるということも近年は途絶えているが、その習わしが再興された、とあります。この点心を振る舞うという行事は大坂に本願寺と興正寺があった時には行なわれていたもので、毎年正月、蓮秀上人が証如上人に点心を振る舞っていました。蓮秀上人が亡くなったあとは、証秀上人が証如上人に点心を振る舞い、証如上人が亡くなったあとは証秀上人が顕如上人に点心を振る舞いました。織田信長との戦いやその後の混乱のなか、この行事は行なわれなくなりましたが、それが再興されたのです。この点心を振る舞うという行事は、興正寺の住持の家と本願寺の住持の家とのつながりを強めるために行なわれてきたものです。顕如上人と顕尊上人は実の親子であり、本来ならばつながりを強める必要はありませんが、この場合は、顕如上人は本願寺住持という立場から興正寺住持の顕尊上人のもとを訪れているのです。

 その後、天正十四年の六月一日となって、天満の本願寺では御影堂の建立のための地固めがはじまります。阿弥陀堂は前年の九月に完成したものの、御影堂はまだありませんでした。天正十四年は顕如上人の父証如上人の三十三回忌の年にあたっており、顕如上人は証如上人の忌日の八月十三日までに御影堂が建立されることを希望していました。

  来八月十三日、前住年忌のまへに御堂建立の有増にて候、いまにはじめず候へども、門下の懇志なくてはたのむ事なく候(『顕如上人文案』)

 八月十三日の年忌までに御影堂を建立したいとあり、建立にあたって、門下に懇志の提供を求めています。

 御影堂の建造は早急に進められて、六月二十八日には立柱式、七月十九日には棟上げが行なわれています。棟上げには門徒たちが群集しましたが、その際、大きな騒動が起こりました。騒動は、様子を見物にきていた武士たちが門徒たちに向け石を投げつけた、ということからはじまります。石を投げつけるというのは相手を侮辱する行為です。怒った門徒たちが武士たちに対抗し、門徒たちと武士たちとの乱闘騒ぎとなったのです。この騒動は羽柴秀吉に知らされ、結局、騒動の中心となった者、十人がはりつけにされました。

 この騒ぎのあとの八月三日、御影堂の移徙の祝いが行なわれます。御影堂は完成しましたが、御影堂は六月の地固めからわずか二箇月で完成したことになります。この御影堂は十間四方の堂で、屋根は取り葺きであったといいます。取り葺きとは、薄い板を並べ、それを石や丸太で押さえるといった葺き方です。先に完成した阿弥陀堂は立派なものではありませんでしたが、この御影堂もあまり立派なものではありませんでした。

 御影堂の完成後、八月六日の夜から十三日まで証如上人の三十三回忌の法要が営まれます。この法要には、本願寺住持の一族である一家衆、四十六人と、諸国の坊主、三百人ほどが出仕しました。八月九日の勤行の際は、顕尊上人が調声をつとめています。

 法要が終わったあとの八月十八日には、あらたに完成した御影堂を見るために秀吉が本願寺を訪れています。秀吉は朝から晩まで一日を本願寺で過ごしました。

 翌十九日には興正寺の本堂の棟上げが行なわれます。

  十九日 興正寺殿御堂棟上(『貝塚御座所日記』)

本願寺は鷺森と貝塚とでは既存の堂を用いあらたに堂を建てることはありませんでしたが、天満では阿弥陀堂と御影堂を建立します。同様に興正寺も鷺森と貝塚とでは本堂を建てることはありませんでしたが、この天満ではあらたに本堂を建立します。(熊野恒陽記)