顕尊上人は三河の本願寺の御坊の住持にもなった

 天正十四年(一五八六)九月二十三日、顕尊上人は天満を出て、三河国へと向かいます。顕尊上人には供として本願寺の家臣たちが従いました。当時、三河国を支配していたのは徳川家康です。顕尊上人たち一行は家康に宛てられた顕如上人の書状や、家康に贈られる太刀などをたずさえて三河へと向かいました。

こうして三河へと向かったものの、顕尊上人たち一行はその後、途中の京都にとどまり、三河へと行くことはありませんでした。羽柴秀吉と家康との間に摩擦が生じたことから、三河に行くことができなくなったのです。本願寺は秀吉から友好的に遇せられています。本願寺が家康と親交を結ぶのであれば、それは秀吉に対する反抗ということになります。一行はやむなく京都での滞在を続けて、十月一日に天満へと戻りました。

 この三河への下向の際には、顕尊上人は興正寺の住持として三河に向かったわけではありません。顕尊上人は平地御坊の住持として三河へと向かいました。

平地御坊は三河にある本願寺の御坊です。顕尊上人はこの平地御坊の住持を兼務していました。平地は地名で、平地にあるから平地御坊といいます。顕尊上人が平地御坊の住持であったことは、顕尊上人が平地御坊のことについてのいろいろな指示を出していたことから分かります。この平地御坊は顕尊上人の下向の前年の天正十三年(一五八五)十二月に本願寺から本尊と蓮如上人の御影が下された新しい御坊です。新しいといっても、新たに創建されたというのでなく、もともとあった御坊を再興するというかたちで開かれたものです。

三河では永禄六年(一五六三)、一向一揆が起り、一揆勢は領主の家康と戦います。この一揆で一揆勢の中心となったのは三河三ヶ寺といわれる上宮寺、本証寺、勝鬘寺の三寺、それに本願寺の三河の御坊であった本宗寺の勢力です。一揆勢は家康と激しく戦ったものの、永禄七年(一五六四)、家康により制圧されます。一揆を主導した三河三ヶ寺の住持と本宗寺の住持はそれぞれ三河国外へと逃亡しました。一揆後、家康は制裁として三河の本願寺の末寺に弾圧を加えます。かなり激しい弾圧でした。弾圧は二十年ほど続きましたが、天正十一年(一五八三)の末以後、段階的に解かれていきます。まず一般の坊主の活動が許され、その後、天正十三年の三月には御坊の再興、十月には三ヶ寺などの三河への還住とそれぞれの寺の復興が認められました。この天正十三年三月の御坊の再興の許可のもとに設けられたのが平地御坊です。平地御坊はもとの御坊である本宗寺の跡を継ぐかたちで開かれました。顕尊上人はこの平地御坊の住持となったのです。逃亡していた本宗寺の住持はすでに亡くなっていました。

本宗寺は本願寺住持の一族が住持をつとめる寺でしたが、一族の寺のなかでも上位に位置する寺です。永禄二年(一五五九)本願寺が門跡になった際、本宗寺は勅許により院家となっています。その時、院家となったのは本宗寺を含め三箇寺だけです。この本宗寺は土呂という地名の所にあったので土呂御坊といわれます。土呂と平地はともに現在の愛知県岡崎市に含まれる地ですが、土呂と平地は、幾分、離れた地です。

顕尊上人が平地御坊の住持となったのは、住持になるよう任ぜられたためです。住持に任じたのは顕如上人です。平地御坊は本願寺の御坊であり、住持を任じるのは本願寺住持しかいません。顕尊上人は顕如上人の嫡男である教如上人の弟であり、本願寺では嫡男に次ぐ立場です。顕如上人はそれだけ平地御坊を重んじたということですが、それとともに顕尊上人を住持としたことには、当時、三河を支配していたのが家康だったということも関係しているのだと思います。家康は秀吉に対抗しうる大きな力をもった存在です。本願寺と家康とが接する際には平地御坊を介して接するわけで、家康への対応ということから、顕尊上人を住持にする必要があったのだと思います。

顕尊上人は平地御坊の住持となりますが、住持となったあとも平地御坊は本願寺の御坊であり、興正寺の末寺になったわけではありません。平地御坊は顕尊上人が住持としてとり仕切りながらも、御坊としては本願寺の支配下にあるということになり、顕尊上人と本願寺の双方から力が働いたことになりますが、双方から力が働いたといっても、顕尊上人と本願寺は対立する関係ではありません。親密な関係です。顕尊上人は本願寺の意向に従いつつ、むしろ本願寺の力を背景にしながら、平地御坊や御坊と関係のある寺などに力を及ぼしていきます。(熊野恒陽記)