但馬国惣仏 共同で護持された親鸞聖人御影

 顕尊上人が天満に移ってから三年目の天正十五年(一五八七)の四月、顕尊上人は天満から但馬国へと赴いています。但馬の興正寺門下の寺を訪れるためです。顕尊上人は但馬で三箇寺の興正寺門下の寺を訪れました。顕尊上人が訪れた寺の側に、この時の下向に関わる文書がのこされています。

興正寺様天正十五四月六日ニ至銀山ニ被成御下向、同九日迄被遊御滞留、翌日十日仁福成寺迄被御移座候而十二日之日中光妙寺江被成御下、同十六日早旦丹後国至九世戸御参詣(「福成寺文書」)

 顕尊上人は四月六日に銀山に着いて九日まで銀山に逗留し、十日に福成寺へと移って、十二日には光妙寺に下ったとあります。顕尊上人はその後、十六日の早朝に光妙寺を出て参詣のため丹後国の九世戸に向かったのだといいます。ここには但馬で顕尊上人が訪れた寺として福成寺と光妙寺の名がみえますが、この二箇寺の前に訪れた銀山というのも寺を指しています。銀

山は生野銀山のことで、ここで銀山といっているのは生野銀山の近くにある金蔵寺のことです。顕尊上人は金蔵寺、福成寺、光妙寺の三箇寺を訪れているのです。

 この三箇寺はともに有力な寺で、但馬の興正寺門下の中心となっていた寺です。但馬は本願寺よりもむしろ興正寺の勢力の方が強かった地です。三箇寺は本願寺の末寺を含めても但馬の中心となる寺でした。金蔵寺は現在の兵庫県朝来市生野町、福成寺は兵庫県豊岡市出石町、光妙寺は豊岡市元町にある寺です。このうち光妙寺は寺号を改め、現在は光行寺といっています。

 三箇寺のうちの福成寺には天文八年(一五三九)に証如上人が下した親鸞聖人の御影が蔵されています。

釈証如(花押)

             天文八年巳亥八月廿六日

大谷本願寺親鸞聖人御影 興正門徒

            但馬国惣仏也

 御影の裏書にはこう記されています。この御影は但馬国の惣仏だというのです。惣とは、すべて、ということで、意味するところは但馬国の皆の御影だということです。要は、共同で所有する御影ということです。そのためこの御影は一箇寺が護持したのではなく、複数の寺が共同で護持をしていました。その護持をしていた寺こそ、金蔵寺、福成寺、光妙寺の三箇寺でした。

 親鸞聖人の御影は、江戸時代以降は一般の末寺に下付されるようになりますが、それ以前は本願寺の直参の坊主の寺にだけ下付されるものでした。御影の護持をしていた福成寺などは本願寺から直参坊主の扱いをうけていたことになります。興正寺門徒の有力な坊主は興正寺門徒のまま本願寺の直参坊主となりました。    

御影を下付されたことに対応して、福成寺と光妙寺は御影を下した証如上人の代に本願寺の三十日番役をつとめています。三十日番役は一箇月の間、本願寺に詰めていろいろな任務にあたるというもので、本願寺の直参坊主のみがつとめるものです。三十日番役は直参の坊主がおおよそ二年に一度の割合で順番につとめましたが、福成寺と光妙寺の場合は、福成寺が二度つとめたら光妙寺が一度つとめるというかたちで二箇寺が共同でつとめていました。御影を共同で護持していたのと同様に三十日番役も共同でつとめていたのです。

 三箇寺が御影を護持するという形態はその後、変化していきます。元亀三年(一五七二)、光妙寺に親鸞聖人の御影が下付されます。光妙寺は福成寺と対になるかたちで直参とされましたが、これで単独の直参坊主となりました。御影を下付されたことで、もとの共同で護持していた御影との関係も希薄なものとなります。 

護持の形態は以後も変化があったようで、顕尊上人が但馬に下った時には、御影は五人の坊主が交代で護持するということになっていました。共同で護持するということは続いていたわけですが、この共同で護持するという形態も顕尊上人の下向の際に改められます。

御影様守護之事、右者五人替々坊主衆御番被申儀候キ、御下向之刻、此坊衆、又かいの衆被呼出、御開山様之御守之事、当福成寺宮内卿善正為一人、可致守護候旨、堅依被仰出(「福成寺文書」)

 顕尊上人の下向の時に記された文書で、書いたのは福成寺住持の善正です。御影は五人の坊主が守護してきたが、顕尊上人の下向の時、顕尊上人が坊主たちの前で今後は善正が一人で守護をするように申しつけたと記されています。これにより御影は福成寺だけのものとなります。善正の要望があって、顕尊上人はこうした申しつけをしたものと思われます。(熊野恒陽 記)