山科言経 顕尊上人と妻祐心尼が生活を援助した

 顕尊上人の妻、祐心尼は公家の冷泉為益の娘です。この冷泉為益には祐心尼を含めて六人の子供がいました。男子は隆昌、為満の二人で、このうち為満が冷泉家を相続し、隆昌は四条家を継ぎました。女子には山科言経の妻となった者や織田信長の家臣と結婚した者などがいます。隆昌が相続した四条家、娘が嫁した山科家はともに公家で、四条家、山科家、冷泉家の三家は家格としても羽林家といわれる同一の家格でした。羽林家は公家のなかでは中流の家格です。

四条隆昌、冷泉為満、山科言経の三人はきわめて近い関係にあったわけで、この関係から、三人はそれぞれ行き来を繰り返し、つねに行動をともにしていました。隆昌、為満の兄弟に対し、言経は十歳以上も年上であったため、三人の中心となったのは言経です。三人は公家として通常の暮らしをしていましたが、三人を苦難が襲います。天正十三年(一五八五)六月、三人はちょっかん勅勘をこうむったのです。勅勘とは天皇に勘当さ

れることで、勅勘をうけると朝廷に出仕することができなくなります。三人の勅勘の理由は定かではありません。公家の本来の任務は天皇に仕えるということです。勅勘をうけるということはその任務を失うということです。勅勘は公家にとってまさに大きな苦難です。

 朝廷への出仕もできず、苦境に陥った三人が頼ったのが身内の祐心尼とその夫の顕尊上人です。天正十三年九月、三人は天満の寺内町へと移り住みます。住居は祐心尼と顕尊上人の助力により調えられました。

 天満へと移った三人のうち、山科言経は『言経卿記』という日記を書きのこしています。『言経卿記』は日々の出来事を詳細に記録した日記です。この日記により、言経を中心とした三人の生活の様子や、言経と祐心尼や顕尊上人との交流の様子などを知ることができます。

 天満での言経の生活ぶりは質素なものでした。言経の生まれた山科家は衣紋道を家業とする家です。儀式などの際にどのような装束を身につけるかといったことを伝承するのが衣紋道です。当然、言経は装束のことや有職故実に詳しく、公家として文芸や諸般の学問の知識もそなえていました。言経はそうした知識を教えることで礼金を得ていました。このほかに収入の大きな割合を占めたのは薬を調合して与えたり、医療行為をすることで得られた礼金です。山科家では言経の父も薬や医業に詳しく、庶民に対し礼を催促することなく医療行為をすることで有名でした。言経も父と同じく薬や医業の知識を身につけていました。これら以外の収入としては、興正寺からの援助があります。顕尊上人は、毎年、決った額の金銭を贈っていましたし、顕尊上人、祐心尼ともに事あるごとに金銭や物品を贈っていました。のこりの二人についても、言経と同様に身につけた知識を教えるなどして生活していました。

 言経と祐心尼との関わりということでは、一緒に食事をするなどの近親者としての日常的な付き合いのほか、言経はしばしば祐心尼のために文芸作品の講説をしたり、書物の書写などをしたりしています。祐心尼が読んでいた書物は和歌や物語、それに軍記物にも及んでいます。祐心尼は和歌を家業とする冷泉家の生まれであり、顕尊上人との結婚前は誠仁親王に仕えていました。かなり高い教養があったのだと思います。

  西御方へ罷向、草子箱携了、穴太記、伊勢物語、十二人絵等、西御方へ貸進了

 『言経卿記』のなかの言経と祐心尼との文芸にまつわる交流を示す記事の一つです。西御方とは祐心尼のことです。祐心尼のもとへ行き、『穴太記』、『伊勢物語』などを貸したとあります。

  西御方へ罷向了、保元物語上下半分程読之、夕飡

有之・・・六百番歌合三冊西御方へ返申了

 別の記事では『保元物語』を講説し、借りていた『六百番歌合』を返したとあります。『保元物語』は保元の乱のことを書いた軍記物であり、『六百番歌合』は鎌倉時代の歌合わせで、歌合わせとしては著名なものです。

 こうした文芸にまつわる交流は言経と顕尊上人の間にもみられ、言経が顕尊上人に文芸作品の講説をしたり、互いに書物の貸し借りをしたりしています。

これら文芸ということ以外では、言経は医療行為をするためにも、しばしば祐心尼や顕尊上人のもとを訪れています。祐心尼と顕尊上人は言経を援助していましたが、言経も祐心尼や顕尊上人のために力を尽くしていたのです。言経たち三人への援助はその後も長く続きましたが、言経たちの側もいろいろなかたちで顕尊上人たちへの協力をしていきました。(熊野恒陽記)