天満寺内町  本願寺の支配から秀吉の支配へ

 豊臣秀吉は本願寺に友好的に接していましたが、常に本願寺に友好的に接していたわけではありません。秀吉が本願寺の対応に怒り、本願寺を責めるということもありました。秀吉が怒ったのは天満の寺内町に秀吉に敵対する牢人らが住んでいたからです。秀吉は顕如上人が自分に敵対する者を寺内町にかくまっているとして怒りました。秀吉は激怒したのだといいます。

秀吉はこの牢人のことで顕如上人を叱責します。天正十七年(一五八九)二月二十九日のことです。秀吉は天正十四年(一五八六)十二月ころから豊臣の姓を用いており、この時にはもう豊臣秀吉となっています。

武士牢人衆之儀付而、殿下ヨリ門跡へ被仰事有云々、種々雑説不斜、恐怖了(『言経卿記』)

 秀吉が顕如上人を叱った日の山科言経の日記です。秀吉が顕如上人を叱責したとありますが、いろいろな憶測が飛び交い、恐怖を感じたともあります。天満の寺内町にはただならぬ気配がただよっていたのです。

秀吉の叱責をうけ、顕如上人はただちに牢人と関係者を捕らえます。天満にいた牢人は斯波謙入、細川昭元、尾藤知宣らです。謙入は管領家の斯波氏の者であり、昭元も管領細川晴元の子です。知宣は勘当されたかつて秀吉の家臣です。いずれも有力な者たちです。  

三月一日、秀吉は問題の処理のため家臣二名を天満に派遣します。家臣の派遣をうけ、顕如上人は捕らえていた牢人の尾藤道休とその従者を死罪にし、道休の首を家臣に差し出しました。道休は知宣の一族の者です。そして、二日には、兼入の家と道休の家、それに二人の家があった二つの町のすべての家を取り壊して焼き払いました。次いで八日には、かねて捕らえていた願得寺の顕悟を自害させています。願得寺は本願寺の一家衆寺院です。顕悟は謙入と姻戚関係にありました。すでに犠牲者も出ていますが、秀吉の責めはまだ続きます。秀吉は、八日、天満寺内町の町人六十余人を捕らえると、翌九日、六十余人を京都の六条河原ではりつけにしました。はりつけになったのは一般の町人の男女で、八十歳を過ぎた老人もいれば、七歳にも満たない子どももいました。町人たちは連帯責任を問われたわけですが、あまりに過酷な仕打ちです。こうして寺内町の住民が犠牲になっているにもかかわらず、本願寺にこの仕打ちを阻止するような動きはみられませんでした。秀吉には逆らえなかったのです。

 町人への処罰が進むなか、秀吉は寺内町の住民たちに、今後は牢人をかくまうようなことをしないと誓った起請文を書かせています。文言はあらかじめ決められており、その文言とともに名前を書いて提出させられました。これは一般の町人だけではなく、顕如上人をはじめ、本願寺の一家衆や家臣たちにも提出が求められています。顕如上人が提出したものは顕如上人と教如上人、顕尊上人の三人で書いたもので、絵像の本尊の裏に文言を記し、署名の上、血判をしたものです。

  寺内可被成御成敗之処、以御憐憫被御免段忝存候

 その起請文の一節です。本来ならば寺内町の全員が処罰されるところ、憐れみにより罰せられなかったことをありがたく思います、と記されています。秀吉の仕打ちを批判するも何も、反対に秀吉に感謝するとの一文を書かせられているのです。

 町人の処罰後、秀吉は天満寺内町に二名の町奉行をおくとともに寺内の掟を定めています。町奉行に任命されたのは本願寺の重臣である下間頼廉、下間仲康です。掟で定められたのは、秀吉に敵対する者を寺内町に住まわせるのはもちろん、その他の武士や奉公人も召し抱えてはならないといったことや、町の住民は誰の家来であろうと住民として一律に扱うといったことです。これらのことで秀吉が目指しているのは天満寺内町に対する支配力の強化です。武士を召し抱えてはならないというのは武力をもつ武士を寺内町に住まわせてはならいということであり、住民として一律に扱うというのは誰の家来であろうと特権を認めず一律に支配下におくということです。町奉行には本願寺の重臣が就いていますが、町奉行は本願寺の下に位置するのではなく、秀吉の下に位置するものとされました。  

本願寺の寺内町は本願寺が直接に支配し、外部の権力の介入を許さなかった地です。秀吉は本願寺に替わりその寺内町を支配しようとしたのです。秀吉は同時にまた天満寺内町の検地も行ない、町の様子を詳細に調べてもいます。天満寺内町はこうして秀吉の支配する地となっていきます。牢人の居住をきっかけに天満は秀吉の支配地となっていったのです。(熊野恒陽記)