天満興正寺  本願寺門下から興正寺の御堂衆になる者も

 興正寺は鷺森、貝塚では本堂を建立することはありませんでしたが、天満では本堂を建立しています。興正寺の本堂は、天正十四年(一五八六)八月十九日に棟上げが行なわれています。興正寺の天満への移転からほぼ一年後のことです。興正寺の本堂があったのは、かつて興正寺の天満別院があった、現在の大阪市北区天満四丁目七の地です。天満四丁目七の地はいまは滝川公園となっていますが、滝川公園は天満別院の境内地と別院の所有地をそのまま公園としたものです。天満の寺内町は、西は現在の大阪天満宮、東はいまの大川に接する地に造成された町であり、興正寺は寺内町の南西部に位置していたことになります。

 こうして興正寺の位置は分かりますが、天満寺内町内部での位置が分かるのはこの興正寺くらいのものです。天満寺内町については分からないことが多く、本願寺がどこにあったのかさえ分かっていません。天満

本願寺については所在地がどこかの推測がなされるだ

けですが、それによると本願寺は寺内町の北東部、現在、造幣局が建っている所にあったとされています。本願寺が造幣局のある所にあったとするなら、本願寺と興正寺はいささか離れて建っていたことになります。

 天満興正寺の本堂と関わることでは、天満に興正寺の御堂衆の誓珍という者がいたことが知られます。誓珍という者がいたことは山科言経の日記、『言経卿記』から知られることです。御堂衆については、このほか智正という御堂衆がいたとの伝えものこっています。この伝えは滋賀県守山市の大谷派立光寺の伝えです。

  顕如上人於大坂御坊依御直命、天正十五丁亥年三月十二日、当寺智正興正寺顕尊上人江被附、殊ニ為守護御堂衆被仰付(『近江守山の仏教遺宝』)

 天正十五年(一五八七)三月十二日、顕如上人の直命により、立光寺の智正は顕尊上人の配下とされ、興正寺の御堂衆になったとあります。天正十五年三月なら興正寺の本堂の建立のすぐあとであり、あらたな御堂衆をおくということは十分にありうることです。この智正が御堂衆となったというのは本当のことのように思われます。

智正が顕尊上人の配下とされ興正寺の御堂衆となったということは、それまで本願寺の門下であった者が興正寺の門下となったということですが、これは立光寺に蔵されていた本願寺よりの下付物からも確認できることです。この寺には実如上人が文亀二年(一五〇二)二月十九日に下した絵像の本尊がありましたが、その裏書には興正寺門徒とは記されてはいませんでした。その後、寛永十四年(一六三七)七月十三日にこの寺に親鸞聖人の御影が下されますが、その裏書には興正寺門徒と記されています。この間に興正寺の門下となったのです。伝えの通り、天正十五年に興正寺の門下となったということなのだと思います。立光寺はこの後、元文三年(一七三八)となって今度は東本願寺の門下となります。

興正寺の御堂衆は興正寺の門下の者がなるものであり、本願寺の門下の者がなるものではありません。智正は顕如上人の命により興正寺の御堂衆となりますが、顕如上人が智正を興正寺の御堂衆にしたのは、興正寺の住持が子息の顕尊上人だったからです。顕尊上人が住持でないのなら、顕如上人が本願寺の門下の者を興正寺の御堂衆に任ずることはありません。

顕尊上人が入寺したことで本願寺門下の者が興正寺の御堂衆になるようになったのですが、顕尊上人が入寺したことで変わったことはほかにもあります。その一つが、興正寺にも下間氏の者が配され、下間氏が興正寺の家政をとり仕切るようになったということです。興正寺に配されたのは下間頼亮という者です。頼亮は興正寺が大坂にあった時に顕尊上人の家来になり、以後、顕尊上人が亡くなるまで顕尊上人に仕えました。下間氏の一族は本願寺の住持の家に仕える一族です。頼亮も顕如上人の意をうけ顕尊上人の家来となりました。頼亮は家政を預かるとともに、奏者として顕尊上人と人びととの取り次ぎをすることを任務としましたが、元来、興正寺ではこれらのことは野条家の者が行なっていました。顕尊上人が入寺したことでそれが下間氏の者に替わったのです。

 御堂衆ばかりか家来も本願寺から来た家来であったわけで、顕尊上人の代の興正寺と本願寺との深いつながりがうかがわれますが、こうした関係からするなら、天満興正寺の本堂の建立にあたっても本願寺からは相当な助成があったものと思われます。(熊野恒陽 記)