七条堀川 その一 秀吉による京都の町整備の一環として京都へ

天正十九年(一五九一)の一月、豊臣秀吉は顕如上人に本願寺を天満から京都に移すよう命じます。この時、秀吉は、現在、本願寺がある六条堀川の地に移転するように命じたわけではなく、下鳥羽より北の好きな地を選んで移転するよう顕如上人に命じました。本願寺が貝塚から天満に移ってから四年半が経っており、天満にはすでに阿弥陀堂、御影堂をはじめ、幾棟もの建造物が建てられています。天満から京都に移転するのなら、それらの建造物も建て直さなければなりません。秀吉の命令は本願寺にとっては迷惑な命令でした。

迷惑な命令であっても、秀吉に逆らうことはできません。移転の話は進んでいきます。移転の地は、現在、本願寺がある六条堀川の地とされ、天正十九年の閏一月五日、六条堀川周辺の地が秀吉から本願寺に寄進されました。その際、秀吉が寄進した地は南北二百八十間、東西三百六十間の地のうち、本國寺の境内地南北五十六間、東西百二十七間の地を除いた地です。本國寺の境内地を除いても、九万坪を超える広さの地です。

 京都への移転にあたっては、本願寺は多大な経費を負担しなくてはならなくなりましたが、これについては秀吉も配慮を加えています。秀吉は本願寺にこの後三年間、いろいろな方面に贈られる時候の進物を停止するように命じています。

  京都江被引越付而、諸事可為逼迫条、歳暮之呉服節句帷、外臨時儀、一切無用候、惣別三ヶ年之間、諸方ヘ音信等堅可被停止之候(「本願寺文書」)

 秀吉からの命令ということであれば、本願寺は進物の贈答を公然と中止することができます。当時の社会は何かにつけ金品のやり取りが行なわれる社会で、地位の高い者は贈答に多くの費用をかけていました。贈答を停止するのなら、その分、出費を減らすことができます。秀吉の命令は本願寺には得となる命令でした。

 本願寺の天満から京都への移転は天正十九年一月に、突如、いい出されたものですが、この本願寺の京都移転は秀吉が進めていた京都の町の整備事業の一環をなすものです。秀吉は天正十四年(一五八六)、京都の内野に聚楽第の造営をはじめて、翌天正十五年(一五八七)にここに移り住みます。聚楽第のあった内野はかつて平安京の大内裏があった所です。聚楽第は壮大な城で屋根は金色の瓦で葺かれていました。この後、秀吉は御所の改修を行ない、天正十八年(一五九〇)からは洛中にあった寺院を鴨川に沿うように京都の東側に集め、寺町を作りはじめています。京都の町の改造にもつとめ、平安京の建設以来、正方形に区切られていた町割りを、正方形の街区の中間に南北に道を通して二分し、長方形に区切られた町割りとしました。こうすることで土地を有効に使用することができます。このほか天正十九年には、お土居を築造しています。お土居は京都の町を取り囲むように設けられた土塁で、北は玄琢、南は九条通り、西は天神川、東は寺町に及ぶという長大なものでした。こうしていろいろな事業が進むなか、秀吉は本願寺の京都への移転を命じます。京都の整備事業の進展とともに、秀吉は本願寺の京都への移転ということを考えるにいたったのです。

 秀吉の京都の整備事業により、洛中の寺院は寺町に移され、本願寺も天満から京都の六条堀川へと移転させられますが、秀吉によって移転させられた寺はこれらの寺だけではありません。佛光寺も秀吉により移転させられています。秀吉は奈良東大寺の大仏に倣って京都にも大仏を造立しようとしましたが、その大仏を祀る寺を佛光寺のあった京都東山の渋谷の地に造営しようとしたのです。秀吉が渋谷の地に大仏を祀ることを決めたのは天正十四年のことで、この年、佛光寺は渋谷から現在の五条坊門の地に移転させられます。五条坊門の地は秀吉から寄進されたものです。秀吉は百間四方、一万坪の地を佛光寺に寄進しました。

京都大仏の造立の作業はなかなか進みませんでしたが、文禄四年(一五九五)となって大仏と大仏殿がほぼ完成します。大仏は奈良の大仏を凌ぐ大きさでした。この大仏は木製で表面を漆喰で塗り固めたものです。そのためもあって、この大仏は翌慶長元年(一五九六)に発生した地震により損壊してしまいます。大仏はその後、造り直されることになります。京都には東西に正面通りという通りがありますが、この通りは大仏殿の正面に位置することから正面通りといわれます。大仏殿のあった地から正面通りを西に進むと西本願寺の御影堂門に突きあたります。大仏殿と本願寺はあたかも向かい合うように建っていたのです。(熊野恒陽記)