顕如上人の死   報恩講の最中に亡くなった

 本願寺は天正十九年(一五九一)の八月五日に天満から京都の六条堀川へと移転します。移転に際しては、天満の御影堂が京都に移され、京都でもそのまま御影堂として用いられました。京都で御影堂の柱立てがあったのは移転の翌日の八月六日のことです。

 阿弥陀堂の方は新築され、天正十九年の十一月に礎石が据えられて、天正二十年の六月に棟上げが行なわれています。阿弥陀堂が完成するのは天正二十年(一五九二)の七月四日のことです。この時の御影堂と阿弥陀堂の配置はいまとは逆で、御影堂は北側にあり、阿弥陀堂は南側にありました。

 天正十九年、京都に移転した年には本願寺には御影堂しかなく、報恩講も御影堂しかない状態で勤められましたが、天正二十年には阿弥陀堂が完成します。天正二十年の報恩講は両堂が揃った上で勤められるもので、前年よりは賑やかなものとなるはずでしたが、そうはなりませんでした。顕如上人が報恩講の直前の十一月二十日に倒れ、報恩講が勤められている最中の十一月二十四日に亡くなったのです。顕如上人が倒れたのは脳卒中のためです。倒れたのちには医師による治療も加えられましたが、それもむなしく、二十四日の昼すぎに亡くなりました。五十歳でした。

本願寺の報恩講は顕如上人の没後もそのまま勤められます。二十五日の日中の勤行では顕如上人の長男の教如上人が報恩講式を拝読しました。この日中の勤行後、顕如上人の妻、如春尼が髪を下ろし得度しています。二十五日には顕如上人の遺体が亭に移され、以後、二十七日まで、人びとが遺体を拝することができるようにされました。二十六日の日中の勤行では顕尊上人が報恩講式を拝読しています。そして、二十八日の日中の勤行では教如上人が報恩講式を拝読しました。この二十八日の日中の勤めから、教如上人は内陣北側のそれまで顕如上人が着座していた場所に着座するようになりました。

顕如上人の葬送は報恩講後の十二月十日に執り行われます。まず御影堂に遺体を納めた棺が移されて御影堂で正偈偈の勤め、ついで棺は阿弥陀堂に移されて阿弥陀堂で十四行偈の勤めがなされました。顕如上人の遺体を納めた棺はその後、輿に載せ阿弥陀堂から運ばれますが、この時には、教如上人、顕尊上人、准如上人の三人の息男と、顕尊上人の息男であるのちの准尊上人、それに教行寺と本善寺の住持の九人が輿を担いました。教行寺と本善寺はともに本願寺住持の一族の寺です。葬場となったのは七条河原です。本願寺から鴨川の七条の河原まで行列が進みました。行列の際には、教如上人、顕尊上人、准如上人は輿に乗りました。顕尊上人は香衣に赤い七条袈裟を着け、顕尊上人に仕えた下間頼亮が太刀持ちとして顕尊上人に従いました。

葬場では遺体が火屋に入れられ、正信偈の勤めがなされました。その後、一行は、一旦、本願寺に戻り、しばらくしてから、再び、収骨のために葬場へと向かいました。収骨にあたったのは教如上人、顕尊上人、准如上人たちです。収骨ののちには勤行があり、その後、一行は本願寺へと戻りました。

本願寺へと戻ったのちは、御影堂の親鸞聖人の御影の前に遺骨が置かれ、勤行がなされました。その後、遺骨は亭へと移されます。押板に顕如上人の御影が掛けられ、その前に遺骨が置かれました。以後、中陰の間はここに遺骨が安置されます。中陰の期間は翌十二月十一日から二十四日までの十四日間とされました。

中陰明けの十二月二十五日、顕如上人の遺骨は墓に納められます。顕如上人の墓が建てられたのはかつて本願寺があった京都東山の大谷の地です。

 御灰、東山大谷ニ御塚ツキ申候、御開山之御塚ト一所ニ(『西光寺旧記』)

大谷の本願寺は蓮如上人の代に比叡山の衆徒によって破却されますが、本願寺が破却されたのちも大谷の地は本願寺の跡地として守られていたようです。大谷の地は親鸞聖人の墳墓が築かれた地です。大谷にはその後、廟堂が建てられ、その廟堂が本願寺となります。顕如上人の遺骨は親鸞聖人の墓所であり、その後、本願寺が建てられたその大谷の地に納められたのです。顕如上人の遺骨はこの大谷の墓のほか、本願寺の御影堂の須弥壇の下にも納められました。

顕如上人が亡くなった時、長男の教如上人は三十五歳、二男の顕尊上人は二十九歳、三男の准如上人は十六歳です。本願寺住持の職は新門主といわれていた長男の教如上人が継ぎます。(熊野恒陽記)