継職と隠退 その一 教如上人の本願寺住持職継職 

 顕如上人は天正二十年(一五九二)の十一月二十四日に亡くなります。顕如上人が亡くなったあとに本願寺の住持の職を継いだのは教如上人です。教如上人は顕如上人の長男であり、顕如上人の在世中から新門主といわれていました。教如上人が本願寺の住持の職を継ぐのは当然のことでした。

  門跡不慮之儀、無是非次第、断言語候、就中其方惣領儀候間、有相続、法度以下堅申付、勤行無怠慢、当家相立覚悟持肝要候(「大谷派本願寺文書」)

 天正二十年は十二月に改元され文禄元年となります。その文禄元年の十二月、豊臣秀吉が顕如上人が亡くなったことをうけて教如上人に与えた朱印状です。顕如上人の死を悼むとともに、教如上人が惣領として住持職を継ぎ、住持としての責務を果たすようにと述べられています。教如上人が本願寺の住持の職を継ぐことは、当時の最高権力者である秀吉からも認められたことだったのです。 

 住持職の継職後、教如上人はそれまで顕如上人に仕えていた下間仲之を罷免し、仲之の代わりに下間頼龍を登用します。頼龍はもともと教如上人の側近だった人物です。本願寺と織田信長との戦いの際、顕如上人は最後には天皇からの和睦の調停を受けいれて大坂を退去し鷺森に移りますが、教如上人は大坂にとどまり戦いを続けます。その際、教如上人とともに大坂にとどまって戦いを続けたのが下間頼龍です。顕如上人と教如上人は教如上人が戦いを続けたことで激しく対立しますが、のちに顕如上人は教如上人を許します。教如上人を許したものの、顕如上人は下間頼龍を許してはいませんでした。頼龍は顕如上人の在世中は勘気をこうむったままだったのです。教如上人はその頼龍を登用したのです。一方で、教如上人が罷免した下間仲之は、一貫して顕如上人に従った顕如上人の側近です。

 教如上人が登用したのは頼龍ばかりではありません。教如上人はそれまで定衆であった誓願寺と定専坊に代え、福田寺と端坊を定衆にしたともいわれています。定衆は本願寺の住持に親しく仕えて勤行や各種の行事に参加するのが役目で、その立場は直参坊主の代表ともいうべき立場です。定衆となった端坊は興正寺の末寺です。この端坊と福田寺はともに教如上人と戦いを続けた人物で、その後は二人とも顕如上人からは破門されていたようです。教如上人は顕如上人の勘気をこうむっていた側近を次つぎに登用していったのです。

 教如上人とともに戦いを続けたことで顕如上人の勘気をこうむっていた者は大勢いました。かれらは顕如上人からは退けられているとはいえ、教如上人にとっては一緒に戦った同志であり、腹心の部下たちです。教如上人は本願寺の住持として、順次、その者たちを赦免していきました。教如上人が赦免した者は八十余人に及んだともいいます。

顕如上人の在世中は逼塞を余儀なくされていた者たちが表舞台に返り咲いたわけですが、かれらの復帰とともに、それまで顕如上人に優遇されていた者たちは逆に冷遇されることになります。顕如上人の側近であった下間仲之は閉門に処せられました。

 本願寺の家臣、門末は織田信長との戦いをどうするかで、顕如上人を支持する一派と教如上人を支持する一派に大きく分かれます。分裂は信長との戦いが終わったあとも解消したわけではなく、その後も両派に分かれ、対立していきます。対立しているとはいっても、顕如上人の在世中は、顕如上人が教如上人を支持する一派を退けることで対立はそれほど表立ったものにはならなかったのです。そうしたなか顕如上人は亡くなります。顕如上人の死により、今度は教如上人が顕如上人を支持していた一派を退けていったのであり、これにより両派の対立は露なものとなっていきます。

 教如上人は顕如上人に仕えていた下間仲之を閉門にするなど過激な処置をしましたが、それだけにその反動も大きなものがありあした。継職の翌年の文禄二年(一五九三)の閏九月のはじめ、教如上人の母、如春尼が豊臣秀吉に教如上人の住持職の解任を訴え出たのです。如春尼は教如上人の素行とともに、顕如上人が教如上人の弟である三男の准如上人に宛てた本願寺住持職の譲り状があるといって教如上人の解任を訴えました。訴えをうけ秀吉は、閏九月十六日、大坂城に関係者を召し出します。召し出されたのは教如上人と教如上人に仕えていた下間頼廉、それに顕如上人に仕えていた下間仲之です。身内の争いということで、この時は顕尊上人も大坂へと向かっています。(熊野恒陽記)