教如上人と准如上人との対立

 豊臣秀吉は文禄二年(一五九三)閏九月十六日、教如上人に隠居を命じ、准如上人に本願寺の住持職を継がせます。これにより教如上人は住持の職を退きますが、退職後にあっても教如上人は住持のような振る舞いを続けていきます。本願寺の内部は顕如上人を支持する派と教如上人を支持する派に分かれており、教如上人を支持する家臣、坊主は大勢いました。それらの人びとが教如上人を支援したのです。教如上人は准如上人の継職後も住持のような振る舞いをしていきますが、そうした振る舞いはまさに准如上人に対する敵対行為です。顕如上人を支持した派は顕如上人の没後は准如上人を支持していきます。こうした教如上人の振る舞いもあって、准如上人の継職後は、准如上人と教如上人、それに准如上人を支持する派と教如上人を支持する派は、一層、対立を深めていくことになります。

住持職の継職後の准如上人はまず側近として下間頼廉を取り立てます。頼廉は教如上人に仕えていた人物です。教如上人に仕えていたといっても、頼廉は顕如上人の在世中は顕如上人に仕えていました。顕如上人は教如上人を支持する人びととの縁を切り、身の周りから退けていましたので、頼廉は強く教如上人を支持する派に属していたわけではありませんでした。頼廉が強く教如上人を支持していたわけではないのにかかわらず、准如上人は頼廉の登用にあたって頼廉に自分への忠誠を誓った誓紙を書かせ提出させています。

  りもん様、かミ様の御事、いさゝかしよさい御さなく、ちそういたし可申候(「大澤喜久所蔵文書」)

 りもん様は理広院と称した准如上人、かミ様は准如上人の母である如春尼のことです。今後は准如上人と如春尼をおろそかにすることなく仕えます、と述べられています。准如上人と教如上人が対立し、准如上人を支持する派と教如上人を支持する派が争うという状況にあっては、こうした誓紙を提出させるといったような措置がことさらに必要とされたのです。

 こののちの十一月に准如上人は興正寺を訪れています。准如上人が訪れたのは十一月十八日です。准如上人は興正寺の報恩講に出仕するため興正寺を訪れました。興正寺の報恩講は十一月十六日の逮夜の勤行からはじまり、十七日、十八日、十九日と勤められます。興正寺の報恩講は興正寺が大坂にあった時から、この日取りで行なわれていたことが確認できます。それ以前の本願寺と興正寺が山科にあった時代にも、興正寺の報恩講はこの日取りで行なわれていたものと思われます。興正寺の報恩講に本願寺の住持が出仕するのは毎年の恒例であったことで、興正寺が大坂にあった時には本願寺の証如上人、顕如上人が興正寺の報恩講に出仕していました。興正寺が山科にあった時代の興正寺の報恩講に本願寺の住持が出仕していたのかは明確にはできませんが、おそらくは出仕していたのであろうと思われます。准如上人もそうした例に倣って興正寺の報恩講に出仕したのですが、准如上人が興正寺の報恩講に出仕したのにはいまひとつの意味がありました。教如上人との対立のなか、准如上人がもっとも大切にしなければならなかったのは顕尊上人であり、興正寺です。顕尊上人は准如上人の兄であり、興正寺はきわめて多くの末寺を有する寺です。興正寺の動向は准如上人と教如上人の争いに大きな影響を及ぼします。興正寺の報恩講への出仕は興正寺への敬意を示す行為です。准如上人は興正寺との関係を深めるという意味を込めて興正寺の報恩講に出仕しているのです。

興正寺の報恩講が勤められていた時、本願寺ではちょうど顕如上人の一周忌の法要が行なわれていました。一周忌の法要は十一月十七日の逮夜の勤行からはじまり、十八日、十九日、二十日と勤められました。顕如上人は本願寺の報恩講の最中の十一月二十四日に亡くなったため、繰り上げてこの日程で法要が行なわれました。准如上人は十八日は興正寺の報恩講に出勤するため晨朝の勤行に出仕せず、日中の勤行から出仕しました。年忌法要は後継者が行なうものです。准如上人が法要を執り行なうことで、法要は准如上人が後継者であるということを印象づけるものとなりました。

顕如上人の一周忌の法要に次いで、本願寺では十一月二十一日から報恩講が執り行なわれます。本願寺住持が行なうもっとも重要な行事が報恩講です。准如上人は継職後、最初の報恩講を迎えました。報恩講では二十七日の日中の勤行で顕尊上人が報恩講式を拝読し、二十八日の日中の勤行では准如上人が本願寺の住持として報恩講式を拝読しました。(熊野恒陽記)