興門様同前   顕尊上人と教如上人の対比

 教如上人は准如上人に本願寺の住持職を譲り隠居しますが、隠居後も住持のような振る舞いを続けます。本願寺の内部は教如上人を支持する派と准如上人を支持する派に分かれています。教如上人が住持のように振る舞っただけではなく、教如上人を支持する派の人びとも、准如上人が住持であるにもかかわらず、教如上人を住持のように遇していました。隠居後の教如上人は本願寺境内の北側の奥に住み、御裏と呼ばれます。准如上人は住持の居住する場所に住み、御表と呼ばれました。教如上人と准如上人は同じ敷地内に住みながら激しく対立しあっていたのです。

入寺 教如上人の振る舞いに対しては准如上人の方も対抗措置をとっています。その一環として、准如上人は本願寺に出入りしている絵師、表具師に、教如上人の命令には従わないことを誓わせた誓紙を書かせて提出させ、教如上人に協力しないようにさせています。

  御本尊之事、被仰出候、委細畏存候、被仰出候上、

  自余へ上申候ハヾ、如来、聖人之可蒙御罰候、此

  等之趣、御取成所望候(「大澤喜久所蔵文書」)

 絵師が提出した誓紙です。絵像の本尊を准如上人以外の人に差し上げるようなことがあったら、阿弥陀如来と親鸞聖人からの罰をうけてもかまわない、と書かれています。准如上人以外の人というのは教如上人のことです。教如上人には絵像の本尊を納めないと誓わせているのです。准如上人は表具師にも同様の誓紙を提出させ、表具をほどこした名号、絵像などを教如上人に納めないことを誓わせています。末寺への絵像の下付は本願寺住持が行なうことです。教如上人は住持ではないのに絵像を下付していたのであり、それへの対抗として准如上人は絵像を描く絵師、表具をほどこす表具師に教如上人への協力を禁じているのです。協力を禁じるといっても、絵師、表具師は本願寺に出入りしている者以外にも大勢います。准如上人の措置にもかかわらず、実際には教如上人はこれ以後も親鸞聖人の御影や顕如上人の御影を下付し続けています。末寺の側も教如上人に下付を希望して教如上人に御影を下してもらっているのです。本願寺はあたかも二人の住持がいるような状況になっていたのです。

 准如上人は絵師、表具師とともに家臣たちにも自分に従うことを誓わせた誓紙を提出させています。服従を誓わせ教如上人の側になびかないようにしたのです。

教如様之儀、興門様同前ニ可仕之処ニ、御代替以後御本寺之外ニ双テ無御座儀共、教如様被成御沙汰ニ候付而、去年夏比以御条数被仰候処、于今無其御験、猶以御本寺同前之御様体、中々不成御本意之儀ニ与御座候(「大澤喜久所蔵文書」)

 文禄四年(一五九五)八月二日、下間頼香たち家臣五十三名が連名で提出した誓紙の一部です。准如上人が住持職を継職したのは文碌二年(一五九三)閏九月のことであり、そのおよそ二年後に記されたものです。誓紙には准如上人に従うことを誓う文言が記されますが、それとともに教如上人の様子についても記されています。教如上人は興正寺の住持である顕尊上人と同様の振る舞いをすべきなのに、本願寺の住持の准如上人と同様の振る舞いをしており、これについては昨年の夏に教如上人に申し入れをしたのにかかわらず、その後も一向に改まっていないと書かれています。これにより准如上人の側も、申し入れを行なうなど教如上人の側に具体的なはたらきかけをしていたことが知られます。教如上人はそれを無視しているわけですが、こうした強硬な態度も背後に大勢の支持者たちがいたからこそとることができたのです。教如上人を支持する派は大きな勢力をなしていたのです。

 この誓紙では教如上人は顕尊上人と同様の振る舞いをすべきだとして、顕尊上人のことが引き合いに出されています。住持と同じような振る舞いをして准如上人に対抗する教如上人に対し、顕尊上人が引き合いに出されているわけですが、逆にここから本願寺の内部での顕尊上人の立場をうかがうことができます。すなわち、顕尊上人は准如上人に逆らうことなく従っていくという立場にあったのです。そして、現実に顕尊上人は、准如上人は弟でありながらも本願寺の住持であり、住持一族の当主であるとして准如上人に従っていました。これに対し、教如上人は名目上は住持の職と当主の座を准如上人に譲ったけれども、実質的には自分が住持であり、一族の当主だという思いをいだいていました。顕尊上人と教如上人は准如上人に対し、まったく違った態度をとっていたのです。(熊野恒陽記)