如尊尼     顕尊上人の娘と准如上人との結婚

 教如上人は文禄二年(一五九三)閏九月、豊臣秀吉に隠居することを命じられ本願寺住持の職を退きますが、隠居後にあっても住持のような振る舞いを続けます。教如上人を支持する家臣、末寺は多く、そうした力を背景に教如上人は住持のような振る舞いを続けました。末寺への親鸞聖人や本願寺歴代住持の絵像の下付は本願寺住持の行なうべきことですが、教如上人は隠居後も絵像の下付を行なっていますし、絵像に付された裏書には、住持ではないにもかかわらず、「大谷本願寺釈教如」との署名もしています。やむなく住持職は退いたものの住持は自分だとの思いがあったのです。

 こうした教如上人の行動は本当の住持である准如上人に対する敵対行為であり、准如上人と教如上人は対立します。准如上人と教如上人との対立は次第に深まっていきますが、対立が深まるなか准如上人は結婚します。准如上人の結婚相手となったのは顕尊上人の娘です。この娘はのちに慈性院との院号と如尊との法名を名乗ります。准如上人とのちの如尊尼が結婚するのは、准如上人が住持の職を継いでから二年ほどを経た文禄四年(一五九五)十二月三十日のことです(『言経卿記』)。准如上人は十八歳、如尊尼は十二歳でした。

 結婚したにしても、准如上人は顕尊上人の弟であり、如尊尼は顕尊上人の娘ですから、准如上人と如尊尼は叔父と姪の関係にありながら結婚したということになります。この時代には有力な武将のなかにも姪にあたる女性と結婚している人物がみられますが、だからといって、叔父と姪の関係にある者が結婚するということが普通であったというわけではありません。あまりなかったことです。しかも如尊尼は十二歳です。この時代なら十二歳での結婚も早すぎるとはいえませんが、それにしても十二歳の娘が叔父と結婚するというのはかなり不自然なことです。現実にこの准如上人と如尊尼の結婚は批判の対象とされてもいます。こののち本願寺は東西の本願寺に分かれますが、東西の本願寺に分かれると、双方の本願寺はともに正統を主張し、東は西、西は東の本願寺をと互いに非難をしあいます。その応酬のなか、東本願寺の立場から著わされた『破似状記』という書では、この准如上人と如尊尼との結婚をとり上げ、叔父と姪が結婚しているといって批判を加えています。准如上人と如尊尼の結婚には批判を招く側面があったのです。

 准如上人と如尊尼の結婚には批判を招く側面がありましたが、それにもかかわらず、准如上人が如尊尼と結婚したのは理由があってのことです。その理由とは准如上人と教如上人との対立です。

教如上人と対立するという状況にあって、准如上人がもっとも大切にしなければならなかったのは顕尊上人です。准如上人は顕尊上人に配慮を加えていましたが、教如上人との対立が深まるなか、顕尊上人にはより一層の配慮を加える必要がありました。顕尊上人は准如上人の兄であるとともに、多数の門末をかかえた興正寺の住持です。顕尊上人が教如上人の側にまわれば、准如上人は大きな痛手をこうむることになります。顕尊上人が教如上人の側につくことだけは避けなければなりませんでした。そのために准如上人は如尊尼と結婚したのです。教如上人が本願寺の住持をやめ、准如上人が住持となったのは、二人の母、如春尼が秀吉に教如上人の解任を訴えたからであり、二人の争いには如春尼が深く関わっています。如春尼は、終始、准如上人を援護しましたが、准如上人と如尊尼の結婚にはこの如春尼の意向もはたらいているのだと思います。

 准如上人は如尊尼と結婚するなど教如上人への対抗を強めていきますが、一方の教如上人の振る舞いもより過激なものとなっていきます。准如上人の結婚から半年後の文禄五年(一五九六)六月二十四日、教如上人は梵鐘を鋳造しています。この梵鐘は現に大谷派難波別院に蔵されています。梵鐘には鋳造の年月日と鋳物師の名、それに「大谷本願寺」との銘があります。銘に「大谷本願寺」とありますが、この梵鐘は教如上人が大坂の渡辺の地に建立した本願寺の梵鐘なのだと伝えられています。渡辺は現在の大阪市北区の天神橋のあたりの地です。もとの大坂本願寺からもすぐ近くの地です。渡辺の本願寺についての詳細は知られませんが、梵鐘がある以上は、堂舎も整えられていたのであろうと思われます。すなわち、教如上人は渡辺の地に京都の本願寺とは別の本願寺を建立していたのです。

准如上人と教如上人との対立は、もはや誰の目にも明らかなものとなっていました。(熊野恒陽記)