伏見大地震   本堂内陣には等身の御影が掛けられていた

 文禄五年(一五九六)閏七月十三日の午前零時ころ、近畿地方で大きな地震が発生します。京都の伏見を震源地とする地震で、京都、伏見、堺などで多数の死者を出した大地震です。この地震は一般に慶長伏見大地震といわれています。近畿をおそったこの大地震により、興正寺の本堂は倒壊します。

寺内ニハ門跡御堂、興門御堂等顛倒了、両所ニテ人二三人死去了、其外寺内家大略崩了、死人三百人ニ相及了、全キ家一間モ無之(『言経卿記』)

 本願寺の寺内町に住んでいた山科言経の日記の一節です。本願寺の地内町では本願寺の御堂と興正寺の御堂が倒壊し、人が二三人死んだとあります。続けて、寺内町の家はほぼすべてが崩れて、壊れなかった家は一軒もなく、死者は三百人に及んだと書かれています。興正寺の本堂だけではなく、この地震では本願寺の御堂や住民の住宅が壊れて、多くの死者が出るなど、本願寺の寺内町にも甚大な被害がありました。

  上京ハ少損了、下京ハ四条町事外相損了、以上二百八十余人死去云々(『言経卿記』)

 京都の町場でも町屋が倒壊し二百八十人ほどの死者が出たとあります。このほか京都では東寺の諸堂が損壊しました。当時、豊臣秀吉は伏見しげつ指月の地にあった伏見城に住んでいましたが、秀吉のいた伏見城もこの地震で倒壊しています、伏見城は地震発生のすぐ前に完成したばかりでした。

 この近畿の地震が起きる四日前の閏七月九日には四国の伊予地方、前日の閏七月十二日には九州の豊後地方で大きな地震が起き、それぞれ多大な被害を出しています。近畿の地震はこれらの地震に誘発されたものとみられています。こうして大きな地震が続いたことから文禄の元号は十月二十七日に慶長と改元されます。

 本願寺、興正寺が天満から京都に移ってくるのは天正十九年(一五九一)八月です。地震が発生するのは移転から五年目のことです。地震で倒壊した本願寺の御堂については、御影堂は天満から移築されたもので天正十九年に移築の工事が行われ、阿弥陀堂も天正十九年から天正二十年(一五九二)にかけ建築工事が進められたことが知られますが、興正寺に御堂については、いつ工事がはじまりいつ完成したのかがはっきりしません。はっきりしないとはいっても、移転後、本堂も建てずにいたとも考えられず、本願寺と同様に移転からすぐに建築工事がはじめられたものと思われます。移転後に建てられた興正寺の本堂の規模についても正確には分かりませんが、当初の本堂の規模は地震後に建てられた次の本堂の規模から推測することができます。次に建てられた本堂は堂内が七間四面であったといいます(『大谷本願寺通記』)。当初の本堂もこれと同じ堂内が七間四面であったとみてよいと思います。

 地震後に建てられた本堂の内陣の左脇壇には、常時、とうしん等身の御影と称される絵像の親鸞聖人の御影が掛けられていました。この等身の御影は顕尊上人が安置することを許されたものです。

  等身之御影ト申ハ、木像ノ御真影ヲウツサレタルヲ云。真向之御影トモ申也。等身御影ハ無左右無御免事也。興正寺殿ヘハ顕尊之御代ニ御安置被成候也。一家衆中ニモ等身御影安置候ハ七ヶ寺計(『法流故実条々秘録』)

 等身の御影はたやすく下されるようなものではなく、顕尊上人の代に興正寺に安置が許され、その後は本願寺住持の一族の寺でも七箇寺だけしか安置を許されてはいないとあります。等身の御影は本願寺の御影堂に安置されている親鸞聖人の木像の御影を正面から描いたもので、聖人が正面を向く姿で絵が描かれていることから向きの御影ともいわれます。通常の本願寺が下付する絵像の聖人の御影は斜め右を見る姿で描かれており、絵の印象はかなり違ったものとなっています。正面を向くために顔も体もふくよかな感じがします。等身の御影はのちには安置する寺も多くなりますが、当初はごく少数の寺にしか安置されないものでした。

 倒壊後に建てられた次の興正寺の本堂に掛けられていた等身の御影は、地震で倒壊した前の本堂にも掛けられていたものとみられます。等身の御影はたやすく下さるものではありませんでしたが、興正寺は特別に下されていたのです。等身の御衛は本願寺下における興正寺の地位を象徴するものでもありました。

顕尊上人は本堂の倒壊から三年後に亡くなります。興正寺の本堂は顕尊上人の跡を継いだ准尊上人の代となって再建されることになります。(熊野恒陽記)