如春尼と豊臣秀吉の相次ぐ死

興正寺の本堂と本願寺の阿弥陀堂、御影堂は文録五年(一五九六)閏七月十三日、地震により倒壊します。興正寺の本堂の再建の工事はその後しばらく経ってからはじまりますが、本願寺の方はすぐに再建の工事がはじまります。本願寺の御影堂が完成し、親鸞聖人の御影が移される移徙の法要が営まれるのは慶長二年(一五九七)十一月三日のことです。阿弥陀堂の方はこれよりも前に完成していたようです。

  御移徙ハ十一月三日、朝勤、阿弥陀堂ニテ御座候て、其後御影様御堂へ移し被参候(『慶長日記』)

 十一月三日、阿弥陀堂で朝の勤めがあってから、御影を御影堂に移したとあります。移徙の法要の日の朝の勤めが阿弥陀堂で行なわれていることから、十一月三日より前にすでに阿弥陀堂が建立されていたことが分かります。この移徙の法要には顕尊上人も出仕しています。本願寺の阿弥陀堂、御影堂は倒壊の翌年には再建されていたのです。この時の再建でも、阿弥陀はは南側、御影堂は北側と、両堂は現在とは逆の配置で建てられました。

 本願寺の御影堂が完成してから二月ほどを経た慶長三年(一五九八)一月十六日、本願寺の顕如上人の妻で、教如上人、顕尊上人、准如上人の母である如春尼が亡くなります。如春尼は体に腫物ができて亡くなりました。教如上人が本願寺の住持職を退いたのは、如春尼が豊臣秀吉に教如上人の住持職の解任を訴えたからであり、教如上人と准如上人が対立する直接の原因をつくったのはこの如春尼です。如春尼は准如上人を擁護し、教如上人と対立しましたが、如春尼が亡くなったことで、准如上人は大きな味方を失い、教如上人は対立する相手を失ったのです。

 対立していたとはいえ、如春尼と教如上人は実の親子です。教如上人は如春尼の死後、如春尼の遺体との対面を望みます。准如上人とは激しく対立していたため、教如上人は顕尊上人にその取りなしを依頼しました(『宇野新蔵覚書』)。しかし、この教如上人の望みはかなえられませんでした。

 如春尼の葬送は一月二十九日に執り行なわれます。

午前十時すぎ、遺体を納めた棺が御影堂の内陣下に置かれ勤行が行なわれました。正信偈舌々、短念仏の勤行です。こののち棺は阿弥陀堂に移され勤行が行なわれます。十四行偈が勤められました。勤行ののち棺は輿に乗せられ阿弥陀堂から外に移されますが、その際、准如上人、顕尊上人、顕尊上人の息男の准尊上人の順で輿に肩を入れ、輿を担いました。准尊上人はこの時十四歳です。如春尼にとってみれば孫です。准尊上人は文録三年(一五九四)、十歳で得度しており、すでに興正寺新門主と呼ばれていました。本願寺の住持である准如上人はこの時二十二歳で、跡を取る良如上人はまだ生まれていませんでした。敵対する教如上人を除いて、准尊上人は本願寺住持の一族のなかでは、准如上人、顕尊上人に次ぐ、三番目の地位にありました。

 このあと火屋が設けられた鴨川の七条河原まで棺が運ばれ、火屋での勤行ののち遺体が火葬されます。勤行の際の焼香では、准如上人、顕尊上人、准尊上人の順で焼香がなされ、その後、本善寺など本願寺住持の一族の寺の住持たちの焼香がなされますが、一族の住持たちの焼香に次いで、教如上人も焼香しています。

  光寿様焼香、新門様ハ坊主衆とあいを置、東の方ニ御立候、御共衆廿人計也(『西光寺古記』)

 光寿は教如上人の名であり、それに続く新門というのも教如上人のことです。教如上人は共の者二十人を引き連れ、准如上人の配下の坊主衆とは離れて立っていたとあります。火屋での勤行はまさに最後の勤行です。亡くなってすぐの教如上人と如春尼との対面は許さなかったものの、准如上人も教如上人に火屋での勤行への参列と焼香だけは許しているのです。

 この如春尼の死から八箇月後の八月十八日、豊臣秀吉が死亡します。秀吉は本願寺に大きな力を及ぼした人物です。紀伊の鷺森に移っていた本願寺が、その後、和泉の貝塚、摂津の天満、京都の六条堀川へと移転したのは秀吉の命令によるものであり、教如上人が隠居し准如上人が継職したのも秀吉の命によるものです。秀吉の命により住持職に就いた准如上人にとって秀吉は大きな後ろ盾でしたが、その後ろ盾である秀吉が死亡したのです。一方の教如上人にとっては自分に隠居を命じた人物が死亡したのです。今後は秀吉の目を気にする必要はありません。教如上人の活動はこののち、より活発なものになっていきます。(熊野恒陽記)