顕尊上人の示寂   体が弱く三十六歳で亡くなる

慶長三年(一五九八)には、一月に如春尼が亡くなり、八月に豊臣秀吉が死亡します。本願寺に関係する有力者の死が続きましたが、有力者の死はこの後も続きます。慶長四年(一五九九)三月三日、興正寺の顕尊上人が亡くなります。

 顕尊上人が体調を崩すのは慶長四年二月のことです。二月十八日、顕尊上人は下向先の摂津国から京都に戻りますが、その翌日の十九日から体調を崩します。顕尊上人と姻戚関係にあり、京都の本願寺の寺内町に住んでいた山科言経は、医学についての知識をもっていたことから、顕尊上人が体調を崩して以後は、ことあるごとに顕尊上人のもとを訪ねています。

  花恩院殿所労急之間、又罷向了、医者延命院来了

 言経の日記『言経卿記』の慶長四年二月三十日条です。花恩院は興正寺の住持が、代々、用いた院号で、顕尊上人のことです。顕尊上人が重篤な状態となり、言経が顕尊上人のもとを訪ねるとともに、医者の延命

院が顕尊上人のもとに呼ばれたとあります。しかし、顕尊上人はこの後、回復することなく三月三日の未明に亡くなります。

  花恩院殿危急之間、終日罷向、度々診脉、上下衆へ快気散百五十服遣了、医者衆も午刻斗ニテ各罷向了、夜半鐘已後[知死期也]、入滅、上下衆愁傷事外也、次西御方皆々診脉了、快気散進了、八時分ニ帰宅了

 『言経卿記』の慶長四年三月二日条です。三月二日、顕尊上人が危篤状態となり、言経は、終日、顕尊上人のもとにいたとあります。続けて、昼の十二時ころには医者たちも集まったが、夜半に臨終状態となり、死期が迫ったことを知らせる鐘が撞かれた後に、顕尊上人は亡くなったと書かれています。顕尊上人に仕えていた人びとは皆、嘆き悲しんだとも書かれています。西御方とは顕尊上人の妻、祐心尼のことです。言経は夫を亡くした祐心尼を診療し、快気散という薬を進上しました。こののち言経は八時、すなわち午前二時に帰宅したとあります。

 三月三日の未明、顕尊上人が亡くなった時、顕尊上人は三十六歳です。三十六歳というのは亡くなるのには早すぎる年齢ですが、もともと顕尊上人はあまり体が丈夫ではなかったように思われます。顕尊上人の父、顕如上人はしばしば湯治に赴いたり医師の治療を受けたりしていて、生来、あまり健康ではなかったのではないかといわれていますが、顕尊上人もそうした体質を受け継いだようです。顕尊上人も何度か湯治に行くということがありました。

 顕尊上人の葬送は三月十日に執り行なわれました。

葬場となったのは不動堂の南の野です。

  花恩院殿葬礼不動堂南野ニテ有之[巳刻ニ]了、新門主、其外門跡院家衆、下間一党、其外諸侍衆供也、貴賤群集也・・・未刻ニハイヨせニ先刻ノ如く二各罷向了(『言経卿記』)

 巳刻、すなわち午前十時に不動堂の南の野で葬礼が執り行なわれたとあります。不動堂は興正寺の南側、油小路と塩小路が交差する所にある不動明王を安置する堂で、現在も不動堂明王院の名でそのままのこされています。この堂の南側で葬礼が行なわれたのです。新門主は顕尊上人の息男である准尊上人のことで、准尊上人と本願寺住持の一族の寺院の住持、それに本願寺に仕えていた下間氏の一族や侍たちが葬送に列し、このほか多くの人びとが葬場に集まったとあります。灰寄せ、つまりは骨揚げについては、未刻、すなわち午後二時に、先ほど葬送の際に葬場に向かった准尊上人をはじめとする人たちが、再度、葬場に向かい行なわれたと書かれています。

 骨揚げののち、准尊上人たちは興正寺に戻ります。その後、山科言経が興正寺を訪れ、准尊上人、祐心尼を診療し、薬を進上しました。それとともに言経は准尊上人に香典を贈っています。

言経は葬送が行なわれた十日以後も頻繁に興正寺を訪れ、祐心尼を診療したり薬を進上したりしています。言経に対しては、閏三月十七日、准尊上人から顕尊上人の形見分けとしてりんず綸子の白小袖が譲られています。

顕尊上人の四十九日の法要は閏三月二十一日に行なわれました。二日後の閏三月二十三日には祐心尼が得度しています。祐心尼が法名の祐心を名乗るのはこれ以後のことです。顕尊上人には亡くなった後に往還院の院号が贈られており、花恩院と称した顕尊上人も以後は往還院と称せられていきます。 (熊野恒陽 記)