東本願寺 家康が土地を寄進

 慶長五年(一六〇〇)九月の関ヶ原の戦いは東軍の徳川家康の勝利に終わります。これにより家康は最高実力者として権力を掌握します。この家康に接近をはかったのが教如上人です。教如上人の側が接近をはかるだけではなく、家康の側も教如上人を厚遇しました。関ヶ原の戦い以降、二人の関係はより親密なものとなっていきます。

 教如上人のことを気遣っていた家康は、慶長七年(一六〇二)二月、教如上人に四町四方の土地を寄進します。京都の烏丸六条の地です。家康はこの地を寺院建立の用地として教如上人に寄進しました。家康は教如上人に一寺の建立を認めたのです。これによって、教如上人により従来の本願寺とは違ったもう一つ別の寺が建立されることになります。いわゆる東本願寺です。

 東本願寺は家康の力を背景に建立されましたが、教如上人が東本願寺を建立することを家康が認めたのは、家康の重臣である本多正信の献策を受けてのことです。

土地の寄進に先だって、家康は正信と教如上人の処遇について話し合いましたが、その時、正信は、本願寺は豊臣秀吉の時代から准如上人を支持する派と教如上人を支持する派の二つに分かれているといって、家康に対し教如上人に別の一寺を建立させることを認めさせるように話を進めていきました(『宇野新蔵覚書』)。この正信の意見により家康は教如上人が別の寺を建立することを認めたのです。

 教如上人は秀吉に隠居することを命じられ本願寺住持の職を准如上人に譲りますが、隠居後も住持のような振る舞いを続けます。本願寺にはあたかも二人の住持がいるような状態になっていましたが、正信は、この際、本願寺を二つに分けた方が得だと考えたのです。本願寺内部が二派に分かれている状態を放置するなら、本願寺はより混乱に陥っていくことになります。それに本願寺は社会的にも強大な勢力です。二つに分かれれば勢力を二つに分けることになります。本願寺を二つの寺に分けることは政治的にも有効な策でした。

 本願寺の東西本願寺への分裂については、よく徳川家康が本願寺の勢力を二分するために東西に分けたのだと説かれます。家康が本願寺を意図的に二つに分裂させたというのです。まるで家康が力で本願寺を東西に分けたように説かれていますが、こうした理解は誤りです。最後は家康の判断により本願寺が二つに分かれたのは事実ですが、その前に本願寺はすでに内部で二派に分裂していたのです。分裂していたからこそ、二つに分かれたのであり、分裂していなければ家康がいくら力を尽くしたところで二つに分けることなどできません。信仰による結びつきは、外部からの力によって断ち切れるほど弱いものではありません。

 正信がいうように本願寺は秀吉の在世中から二派に分かれていましたが、教如上人の活動は慶長三年(一五九八)の秀吉の死亡後、より過激なものとなっていきます。教如上人は慶長四年(一五九九)、『正信偈』と『三帖和讃』を開版し、慶長五年(一六〇〇)には近江国の大津御坊を建立しています。それのみならず、六条堀川の本願寺境内にあった教如上人の隠居屋敷内に阿弥陀堂と御影堂の両堂をも建設していました(『重要日記抜書』)。完全に二派に分かれていたのです。

 土地寄進後の慶長八年(一六〇三)正月、教如上人は上野国群馬群厩橋の妙安寺から木像の親鸞聖人御影を迎えます。この御影は妙安寺に所蔵されていたもので、親鸞聖人が自作し妙安寺の祖である成然に授けたと伝えられるものです。教如上人は自分の寺に安置するのに相応しいものとして、この像を迎えました。妙安寺が教如上人に御影を献上するに際しては、家康から大判三十枚もの多額の金子が褒美として妙安寺に贈られています。御影を迎えることにあたっても、家康による助成があったのです。

 御影を迎えたのちは烏丸六条の地で建造物の工事が進められました。まず阿弥陀堂の建造がはじまり、慶長八年の十一月に阿弥陀堂が完成します。御影堂の方は慶長九年(一六〇四)九月に完成しています。御影堂には妙安寺から献上された御影が安置されました。准如上人が住持をつとめる西本願寺に対し、教如上人が住持をつとめる東本願寺がここに建立されたのです。 

もっとも、当時の東本願寺は、本願寺の隠居である教如上人の寺という位置づけにあり、正式に本願寺というなら、それは西本願寺のことでした。東本願寺が西本願寺と同格に扱われるようになるのは教如上人が亡くなったあとのことです。(熊野恒陽記)