古満姫 その一 毛利輝元の養女と結婚

 准尊上人は慶長七年(一六〇二)八月十二日に結婚します。相手は宍戸元秀の娘の古満姫です。古満姫は毛利輝元の養女となっており、輝元の娘として准尊上人に嫁ぎました。古満姫の名は一般には古満と表記されることが多いですが、古万と書かれたり、駒と書かれたりすることもあります。音読みの、こま、が正式な名で、それを古満、古万、駒と表記しているのです。

 准尊上人が古満姫と結婚したのは准尊上人が十八歳の時です。しかし、相手の古満姫の年齢がはっきりとしません。古満姫はこの後、准尊上人の跡を継ぐ准秀上人を生みますし、准尊上人が亡くなった後は得度して長寿院妙尊と名乗り、興正寺の運営にも深く関係していきます。それにもかかわらず、興正寺では古満姫の生年や年齢に関することを何も伝えていないのです。

古満姫の生年については、興正寺に伝えがないだけではなく、毛利家の側にも生年を明確にする記録は伝わっていないようです。ただ、一つの見方として、古満姫が生まれたのは天正十年(一五八二)だとする見方があります。これは根拠もなくいわれていることではありません。文禄四年(一五九四)、古満姫の養母にあたる輝元の妻は安芸の厳島神社に土地を寄進しており、それを示す文書がのこされていますが、その文書には、輝元の妻は壬午の年に生まれた者のことを願って土地を寄進したと書かれています。輝元の妻は壬午の年に生まれた者の幸福を願っているわけですが、この壬午の年に生まれた者を古満姫とみるのです。文禄四年より前の壬午の年は天正十年です。土地を寄進して祈願していることからすれば、壬午の年に生まれた者は輝元の妻と相当に近い関係にあったことになりますが、天正十年の生まれというのなら、古満姫もそのころに生まれたと考えられるので、この壬午の年に生まれた者を古満姫とみるべきだとするのです。この見方は妥当なものと思われます。そうであるならば、古満姫は天正十年の生まれであり、准尊上人と結婚した時は二十一歳であったということになります。

 古満姫は宍戸元秀の娘で毛利輝元の養女となっていますが、この宍戸家は毛利家の一門に連なる家であり、宍戸元秀の妹が毛利輝元の妻になっていました。壬午の年に生まれた者の幸いを願った輝元の妻は古満姫の叔母であったのです。毛利家は長州藩の藩主となりますが、代々、長州藩の家老をつとめたのが宍戸家です。

 この古満姫は准尊上人と結婚する前は、小早川秀秋と結婚していました。小早川秀秋の生い立ちと一生は複雑です。秀秋は天正十年、木下家定の息男として生まれます。この木下家定は豊臣秀吉の正室、高台院の兄にあたり、その縁で秀秋は実子のいない豊臣秀吉の養子となります。秀秋は豊臣の姓をたまわるとともに、一時は豊臣家のなかでも重要な地位にありましたが、その後、秀吉に実子の秀頼が生まれます。これによって秀秋の立場が変わります。秀秋は文禄三年(一五九三)、秀吉の命により小早川隆景の養子となります。秀吉から遠ざけられたのです。小早川隆景は毛利輝元の叔父であり、輝元を補佐しながらも、輝元の教育にあたった人物です。秀秋と古満姫が結婚するのは秀秋が隆景の養子となった時です。文禄三年、秀秋が隆景の養子になる際、輝元が妻の姪の古満姫を養女とし、秀秋と結婚させたのです。輝元の妻が壬午の年の生まれの者の幸福を願ったのは翌文禄四年のことです。

 秀秋と古満姫の結婚は長くは続きません。秀秋は古満姫とは違う女性との間に子を儲けます。それを機に関係が悪化し、二人は結婚から五年後の慶長四年(一五九九)に離別します。離別の翌慶長五年(一六〇〇)には関ヶ原の戦いが起こります。東軍の総大将徳川家康に対し、西軍の総大将となったのが毛利輝元です。秀秋も西軍に属しましたが、秀秋は家康と通じており、西軍を裏切って逆に西軍側を攻撃します。この秀秋の裏切りをきっかけに西軍は総崩れとなり、敗北します。

 関ヶ原の戦いののち、秀秋は功により岡山藩の藩主になります。総大将であった輝元は、もとは強大な勢力を有して中国地方一帯を支配していましたが、減封されて長門と周防を領するだけになりました。准尊上人と古満姫が結婚した時、秀秋は二十一歳で岡山藩主です。しかし、秀秋はその二箇月後の十月十八日、突如、死亡します。結果からみれば、不幸な生涯でした。

 教如上人は徳川家康から京都の烏丸六条の地を与えられて東本願寺を建立します。教如上人は家康と親しくしていきますが、一方で准尊上人は家康に対抗した毛利輝元と縁を結んでいったのです。(熊野恒陽記)