長州下向その一  建立されたばかりの興正寺の兼帯所、清光寺へも

准尊上人と古満姫が結婚してから八箇月後の慶長八年(一六〇二)四月十日、古満姫は養父の毛利輝元から周防国都濃郡の生野屋と野上荘に合わせて七百石の知行を与えられています(『長州書物写』)。いわゆる化粧料であり、この七百石は古満姫の身の回りの経費として使われるものです。その二箇月後の六月十二日、准尊上人と古満姫の間に娘が生まれます。この娘はのち古満姫の実家である長州藩の宍戸家の宍戸就尚と結婚します。就尚は古満姫の兄である宍戸元続の孫にあたります。准尊上人と古満姫には慶長九年(一六〇三)十一月二十五日、また娘が生まれています。この娘はのち摂津国有馬郡名塩の教行寺の准超と結婚します。

 二人の娘が誕生したのちの慶長十年(一六〇四)、准尊上人と古満姫は娘を伴い毛利輝元のもとを訪れています。京都を出たのが六月十三日で、帰ってきたのは十月十九日です。ただ、下の娘は生まれてまだ半年です。この下の娘を伴ったかどうかは定かでありません。

この時、輝元がいたのは長門国の萩城です。関ヶ原の戦い後、減封され長門と周防を領するようになった輝元が本拠地として選んだのが萩です。輝元は慶長九年に萩城の築城をはじめます。萩城が完成するのは慶長十三年(一六〇八)のことですが、輝元は慶長九年の暮れから萩城に住んでいました。輝元が移る前の萩は町屋がわずかに並ぶ程度であったといわれます。城とともに城下町として萩の町の整備も進められました。

 准尊上人たちの長門への下向は四箇月間にわたっています。この間、准尊上人たち一行は萩だけではなく、周防国吉敷郡の山口をも訪ねています。

  けふハ天気よく御たちめてたく候、舟中ひよりよく御さ候ハんまゝ悦まいらせ候、まつ〱御ちこ御きふんよく候や(「教行寺文書」)

 この下向の期間中に輝元から古満姫に対し出された消息の一節です。天候がよくて無事に舟が出たことを悦んでいます。あわせて輝元は自身の孫にあたる古満姫の稚児の気分はどうかとも問いかけています。これにより准尊上人の娘が同道していたことが分かります。この消息は宛所が「さゝなミ 御やと」となっています。佐々並の宿にいた古満姫に対し出されているのです。佐々並は萩と山口との間にある町場です。

  けふはことのほか雨にて候まゝ、ろしいかゝとそんし候、さためてとく御つき候すると存候、御心よく御さ候や(「興正寺文書」)

 同じく輝元の消息です。雨が降ったことから路次の様子を心配しています。こちらは宛所が「山口 御やと」となっています。山口は周防の山口です。萩だけではなく山口をも訪れているのです。

 淳尊上人たちが山口に赴いたのは、のちに萩に移される清光寺の前身の寺を訪れるためであったとみられます。萩の清光寺は興正寺の兼帯所であり、江戸時代には長州藩内のすべての真宗寺院を与力末寺としていた寺です。清光寺は慶長九年ころ山口に建立され、慶長の十二年(一六〇七)か十三年ころ萩に移されます。清光寺ついては長州藩の寺院、神社の由緒をまとめた『防長寺社由来』に簡単な由緒が記されています。

  当寺開基は輝元公の御簾中、清光院殿為御菩提所御建立也、年号ハ慶長九年の比、清光院殿御在世の内於防洲山口御建立の由、因茲彼地興正寺屋敷と云旧地有之と申伝候、於萩御建立ハ慶長十弐三年比御建立と申伝候

 清光寺は毛利輝元の妻である清光院の菩提所として建立されたもので、最初は山口に建立され、のち萩に建立されたとあります。山口には興正寺屋敷という旧地があると伝えられているともあります。清光寺は輝元の妻の院号である清光院に因んで清光寺といいます。

 この清光寺は准尊上人を開山としています。

  准尊上人を以当寺の開山とするハ輝元公の御養姫長寿院殿、興正寺御門跡准尊え被為嫁候御由緒を以、当寺御建立の節永ク興正寺御門跡の兼帯所ニ被相定候故、准尊上人を以為開山来候事

 長寿院は古満姫のことです。輝元と輝元の妻の清光院の養女である古満姫が准尊上人に嫁いでいるため、清光寺は建立の時から興正寺の兼帯所と定められ、准尊上人を開山とするのだといっています。

 この由緒に従うのなら、准尊上人が山口に行ったのは清光寺が建立された直後のことということになります。しかも准尊上人はその清光寺の開山とされているのです。准尊上人と古満姫の一行が山口に赴き清光寺を訪ねたことは間違いのないことです。(熊野恒陽記)