ご消息  興正寺では准尊上人がはじめてご消息を書いた

 准尊上人は本堂の再建に際し、ご消息を書いて門下に懇志の奉加を依頼しています。興正寺には伏見門徒衆中に宛てられた准尊上人のご消息が蔵されるだけですが、当然、ご消息はこの伏見門徒衆中に宛てたもののほかにも何通も書かれたはずで、ひろく各地の門下に懇志の奉加が依頼されたものとみられます。

 准尊上人はこの本堂の再建に関わるもの以外、天満御坊の再興の際にも懇志の奉加を願ったご消息を書いていますし、特定の目的を記さずにただ懇志を募ったご消息をも書いています。これらのご消息では、まず短く懇志の奉加を依頼する文が記され、ついでそれよりも長く法義を説いた文が記されています。

態染筆候、仍為勧進圓光寺差越候、時分柄可為造左候へとも、各被励懇志候之様頼入候、就其、人間ハ老少不定にして、電光朝露のあたなるさかひなれは、片時もいそきて、阿弥陀如来をたのミ、信心決定あるへき事肝要候、その信心決定の上に

ハ、仏恩報謝の称名をたしなみ、真実報土の往生をとけらるへき事専用候、たゝあらましのていにてハ不可有其詮候、能々志案候て、無油断法儀こゝろにかけらるへく候、尚美作可申候也、穴賢々々

八月十日   准尊(花押)

      伊勢坊主衆中

       同門徒衆中(「興正寺文書」)

 伊勢坊主衆中、同門徒衆中に宛てられたご消息です。態染筆候との書き出しのあと、圓光寺を下すので懇志の協力を願いたいとの懇志を依頼する文があり、ついで、人間界はいつ寿命が尽きるか分からないから急いで信心決定することが大切だとの法語が書かれています。続けて記される美作というのは准尊上人に仕えた下間頼亮のことで、美作が申すというのは、このご消息とともに頼亮の書状が添状として発せられており、その添状で頼亮が述べるということです。そして、日付、署名と花押があり、宛所が記されています。

 准尊上人が書いたご消息は、懇志の目的が違ったり、法語の内容が変わったりはしますが、体裁としてはすべてこの体裁で書かれています。この体裁は東本願寺の教如上人、西本願寺の准如上人が書いていたご消息の体裁を踏襲したものです。本願寺では蓮如上人が多くの御文を書いていますが、それ以後の本願寺では法義を述べるご消息はあまり書かれませんでした。法語が書かれるのは、懇志を受けとった時の書状に、謝意を示す文言に添えて若干の法語が書かれる程度のことでした。これに対し、教如上人、准如上人は法語を主体としたご消息を書いていきます。その際、二人が採った体裁が、態染筆候との書き出しのあと、懇志の依頼などの用件、長文の法語、添状に関わる文言、穴賢々々の書止文言、日付、署名、花押、宛所と続く体裁でした。こうした体裁で法義を述べたご消息はそれ以前にはなかったものです。准尊上人はその体裁に倣ってご消息を書いたのです。

 興正寺の顕尊上人は教如上人、准如上人と兄弟ですが、顕尊上人は通常の書状は書いたものの、法語を主体とするご消息は書かなかったようです。興正寺では准尊上人がはじめてご消息を書いたのです。准尊上人以後、興正寺の住持は、代々、ご消息を書いていきます。ご消息は東西の本願寺の住持により書かれます。興正寺は西本願寺下に属しましたが、それにもかかわらず興正寺住持はご消息を書いたのです。

 興正寺住持のご消息は興正寺の門下に示されるものです。西本願寺住持のご消息は西本願寺門下の全体に示されるもので、興正寺住持のご消息と西本願寺住持のご消息は違ったものです。それでもご消息を書くということでは同じ行為です。准尊上人は自分は西本願寺の住持と同様にご消息を書く立場にあるのだとの思いからご消息を書いているのです。西本願寺下にあっても、興正寺門下は興正寺を頂点に一つのまとまりを形成していた様子がうかがえます。江戸時代、西本願寺は興正寺への支配を強めますが、西本願寺の興正寺への支配は時とともに強まっていきます。准尊上人の在世中はいまだ西本願寺の支配力は弱く、興正寺はある程度の独立性を保っていました。だからこそ、准尊上人は西本願寺の住持と同様にご消息を書いたのです。

 准尊上人以後も興正寺住持はご消息を書いていきますが、これは准尊上人がご消息を書いたことが先蹤となり、興正寺住持はご消息を書いてもよいという慣例ができたことで書かれたものなのです。(熊野恒陽記)