「蓮如上人の行実 その三」

~山科本願寺~

文明七年(1475)八月、蓮如上人は吉崎をあとにして、畿内へと戻ります。吉崎からは、舟で若狭の小浜へと渡り、そこから丹波、摂津を通って河内へと移りました。落ち着いた先は河内の出口(大阪府枚方市)です。その地に住む石見入道空念という者が坊舎を建て、蓮如上人を迎えました。

蓮如上人が吉崎を去ったのは、加賀国内での門徒衆と富樫政親の対立が要因となっています。加賀では文明七年三月の門徒衆の敗北後も、門徒衆と政親の対立が続きます。政親と門徒衆の争いは蓮如上人の望むところではなく、蓮如上人はこの争いを避けるため吉崎をあとにしました。

蓮如上人はしばらくの間、出口坊に滞在することになり、畿内に戻ってからの最初の報恩講も出口坊で執り行われます。蓮如上人は、本願寺伝来の親鸞聖人の御影を近江にのこしたまま吉崎に向っています。御影がのこされたのは近江の三井寺の側の近松坊という坊舎です。この時にも御影は近江の近松坊にありました。

蓮如上人が出口に移ってからは、蓮如上人の教化はひろく畿内全域に及ぶことになります。坊舎の方も増え、出口の坊に加え、摂津の富田(大坂府高槻市)や、堺にも坊舎が設けられています。

出口での滞在ののち、蓮如上人は山城の山科へと移ります。山科に本願寺を再建するためです。山科への移転は文明十年(1478)の正月、蓮如上人の六十四歳の時のことです。山科が選ばれたのは、近江金森に住む善従という門徒が蓮如上人にこの地を勧めたためといわれています。土地は山科の住民、海老名五郎左衛門が寄進したと伝えられます。

山科に移ったのち、蓮如上人はまず馬屋を作ります。ついで庭園が整備され、寝殿が建てられます。寝殿は堺の坊舎を移築したものです。文明十一年からは御影堂の建立にも着手します。御影堂は翌文明十二年の三月に上棟します。八月には仮仏壇が設けられ、絵像の親鸞聖人の御影が安置されます。絵像の御影を安置した日、蓮如上人は堂にこもり、嬉しさで一睡もせず夜を明かしたといいます。そして、十一月、近江から本願寺伝来の聖人の御影が移され、報恩講がこの御影堂で営まれます。

その後、文明十三年の二月からは阿弥陀堂の建立に着手します。阿弥陀堂は四月に上棟、六月には仮仏壇が備えられます。ついで、文明十四年の正月からは御影堂の大門の建築に取りかかり、間もなく御影堂門が建てられます。これに合わせ、堀を掘ったり、橋を架けたりと境内の整備も行なわれています。そののちには阿弥陀堂に手が加えられ、仏壇が漆で塗られて彩色がほどこされます。

その後も小さな工事は続きますが、大きな造作はこれで終り、山科の本願寺は文明十五年には一応の完成をみたようです。丸五年をかけての造営でした。

山科本願寺の境内地は広大で、二万四千坪に達していたとも推測されています。その地に五年をかけて堂舎が造営されたのです。山科本願寺がなみなみならぬ規模であったことがうかがえます。山科本願寺の大きさは、そのまま当時の本願寺の勢いを象徴しています。

加えて、本願寺の社会的地位もこのころに大きく向上しています。山科本願寺の建立に際しては、朝廷が香筥を記念として本願寺に下賜していますし、造営なった御影堂を将軍足利義政の夫人、日野富子が見物に来たりもしています。本願寺が公家、武家との関係を深め、社会的な地位を向上させていたということです。

寛正の法難で本願寺が破却された時、本願寺の敷地はわずか三百坪弱です。それが十余年を経て、蓮如上人が本願寺を再建した時には、敷地は数十倍になり、朝廷が記念の品を下賜するまでになっていたのでした。佛光寺の経豪上人が本願寺教団に参入するのは、まさにこの山科本願寺が造営されていた最中のことです。

山科本願寺の造営後も本願寺はさらに発展を続けますが、そうしたなか蓮如上人は延徳元年(1489)に隠居します。跡を継いだのは実如上人です。隠居ののちにも蓮如上人の活動は活発で、山科、出口、富田、堺と各地を往来しての活動を続けています。そして、明応五年(1496)には摂津大坂の地に着目し、そこに坊舎を建立しています。大坂御坊です。大坂御坊の建立後は、蓮如上人は多くをここで過ごします。

蓮如上人は、その後の明応八年となって、亡くなります。八十五歳でした。死の直前に大坂から山科に戻り、山科で亡くなりました。

(熊野恒陽 記)