「明光上人と西国門徒」

明光上人は興正寺の第五世とされる誓海上人から教えを受けた人で、興正寺では歴代の第六世としています。明光上人も誓海上人とおなじく鎌倉に住んでおられ、史料には「甘縄了円」とあらわされています(存覚一期記)。了円とは明光上人のことで、鎌倉のなかでも甘縄郷に住んでいたことが知られます。

上人の跡を伝えるのは相模国野比(神奈川県横須賀市)の最宝寺という寺で、明光上人いらいの古い由緒を誇っています。この寺は戦国時代にいまの野比の地に移りましたが、もとは鎌倉の高御蔵という地にありました。室町時代、最宝寺の住持は天皇より上人号の勅許を受けており、かつてこの寺が独自の発展をとげていたことがうかがえます(最宝寺文書)。

本来、上人とは知と徳のそなわった僧をうやまって呼ぶ尊称で、いわば私的にもちいられていたものですが、室町時代には申請によって朝廷が上人号をさずけるということもおこなわれだして、一種の僧侶の位になっていました。

申請には相当の礼銭も必要ですし、むやみに許されることもありませんから、最宝寺がそれなりの財力と格式をそなえた寺となっていたことは確かです。

最宝寺の伝えによると、明光上人は藤原頼康という人の子で、母は源義朝の娘であったといいます。もとは天台宗の僧侶で、越後に流された親鸞聖人をたずねて弟子となり、その後、聖人が関東の教化にあたっていた時、聖人にめされ、関東に念仏はひろまったが、西国には教えが伝わっていないので、と西国の教化にあたるよう命ぜられたといっています。

実際には明光上人は親鸞聖人よりものちの時代の人であって、上人が親鸞聖人の弟子となったというのは史実とはされていませんが、明光上人の弟子が西国に進出していったのは事実であり、それを踏まえてこうした伝承が語られるようになったようです。

備後国沼隈郡山南(広島県沼隈町)にある光照寺という寺は、明光上人によって開かれたと伝えられる寺で、中国、九州、四国の西国地方で最初に建てられた真宗寺院だといわれます。

光照寺の事実上の開基は明光上人ではなく上人の弟子のようですが、光照寺が明光上人の流れをくむ寺であることは間違いなく、鎌倉の明光上人の系統が備後にまでのびて開かれた寺でした。光照寺は江戸時代のはじめまで最宝寺を本寺とし、その末寺となっていました。

西国の明光上人の系統の門末はこの光照寺を中心にひろがっていき、光照寺の末寺は備後をはじめ山陽から山陰地方におよんで、その数は三百ケ寺をこえたといいます。備後や山陰地方には明光上人を開基としている寺は少なくありません。

光照寺が開かれたのは鎌倉時代の末期であり、はやい時期に真宗の教えが遠隔の地にひろがっていたことが知られます。鎌倉と備後では距離に大きなへだたりがありますが、この時代には、幕府の実権をにぎっていた鎌倉の北条氏が西国の海岸部の重要な拠点をおさえて、鎌倉を中心とした交通や流通の経路をきずいており、西国と鎌倉との人びとの交流や物資の輸送は思われている以上にさかんにおこなわれていました。明光上人の弟子たちもそうした大きな流れのなかで西国に進出していったものといえます。

光照寺の伝承では、明光上人は従者三人と与力六人をしたがえて備後に来たといい、上人が光照寺を建立すると、従者三人もそれぞれ寺を建て、与力の六人もそれぞれに寺を建てたのだといいます。のち上人は京にのぼるため寺を弟子にゆずり、舟で京に向かったところ、途中で病をえて京につく前に亡くなったとされ、遺体は京都で荼毘にふされて、遺骨は備後に持ちかえり光照寺におさめられたと伝えられます。

上人が本当に備後をおとずれたのかどうかは定かではなく、行かれたとも行かれていないともいわれますが、光照寺が開かれたのは上人の在世中のことであり、上人が備後をおとずれたとしても不思議はありません。

上人の遺骨が光照寺におさめられたとする伝承はひろく信じられた伝承で、相模の最宝寺でも上人の遺骨は遺言によって光照寺におさめられたのだといっています。光照寺では江戸時代をつうじ明光上人の忌日とされる五月十六日に明光忌がおこなわれ、ご遠忌なども盛大につとめられたといいます。在家の信者のあいだでも上人はしたしまれおり、「明光さん」といわれる講がむすばれて、上人のちいさな絵像を伝えています。

上人は興正寺でというより、むしろ西国で有名な人であるようです。

(熊野恒陽 記)