「日本血脈相承真影 その二」

~興正寺の末寺にならない寺~

摂津柴島の万福寺に蔵される佛光寺の法脈を示す連坐像には、了源上人に続き、上人からの教えを伝える者として、空専、教真、賢真、西定、西真、□□、円道、法願、法秀、法円、法妙、法実といった先徳の姿が描かれています。了源上人から空専に教えが伝わり、空専からは教真、教真からは賢真と、順次に教えが伝わったことを表しています。

万福寺の伝えでは、この空専以下の先徳は万福寺の歴代とされ、万福寺は空専によって開かれ、二世教真、三世賢真と相承されたのだといっています。これは連坐像が伝来したことから、そこに描かれた人物を寺の歴代と考えて、いわれ出した伝えなのでしょうが、連坐像が表わしているのは法のながれということであり、寺の相承を表わしているわけではありません。絵で表わされているのはあくまで法脈の系譜です。

了源上人から法脈を相承している空専は、万福寺の寺伝では万福寺の開基とされていますが、この空専については居住していた場所が判っています。空専が住んでいたのは山城国紀伊郡の鳥羽(京都市伏見区)です。

鳥羽は京都市の南部に位置する地です。鳥羽は今でこそ単なる内陸の地となっていますが、かつては平安京の外港としての役割をはたしていた地です。鳥羽は鴨川に面する地で、港として鳥羽津が開かれていました。鴨川は鳥羽の下流で桂川と合流し、桂川はさらに下流で宇治川と合流して淀川となります。淀川は大坂に通じる川で、大坂からは海に出ます。

古く、瀬戸内や西国と、京とを結んでいたのは、この淀川を通る水上の交通路です。人びとは舟で淀川を行き来しました。鳥羽はこの淀川の水上交通の拠点となる地です。空専はその鳥羽に住んでいました。連坐像を伝えた万福寺のある柴島も淀川に面した地で、鳥羽と柴島は淀川で結ばれています。空専の門徒団は淀川沿いに発展した門徒団だということができます。

空専が鳥羽にいたことは、光薗院本の『親鸞聖人門侶交名牒』の記載から判ることです。『交名牒』は親鸞聖人の時代からの古い真宗門徒の名を門徒団ごとに列記したものです。この書のなか空専は了源上人の弟子として記され、在所についても「トハ」と書かれています。『交名牒』はさらに空専の弟子として賢真の名を記し、その賢真の弟子として顕性との名を記しています。ここに空専の弟子として現われる賢真が、連坐像に描かれている賢真と同一の人物であることは疑いのないことです。賢真の在所は記されていませんが、淀川沿いに居住していたものと思われます。

連坐像には空専に続き教真が描かれ、教真に次いで賢真が描かれていますが、この教真については、摂津国西成郡西村(大阪市東淀川区)の光用寺が開基を教真と伝えています(『光薗院末寺開基改書類』)。光用寺は佛光寺派に属する古い寺で、絵系図をも蔵しています。その絵系図には了源上人に続き教真が描かれています。一説には光用寺の開基は空専だとも伝えられますが、要は空専の系統の寺だということです。光用寺のある西村も淀川に近接する地です。

このほかにも空専の門徒団で用いられたものとしては、光明本尊がのこされています。これは京都の寺に伝えられたもので、そこには伝法の先徳として、連坐像にみえる空専、教真、賢真、『交名牒』にみえる顕性の像が描かれています。空専の門徒団がかなり発展していたことを示すものだといえるでしょう。

連坐像を伝える万福寺はこの空専の門徒団から本願寺へと転じた寺です。万福寺は佛光寺系の寺だったわけですが、佛光寺に属していたとはいえ、この万福寺はその後の興正寺の末寺にはなっていませんでした。万福寺は、近くの三番(さんば)の地の定専坊の末寺になっていました(『御影様之留』)。定専坊は多数の門末をかかえた、有力な寺院です。佛光寺系の寺が、全て興正寺の末寺となったわけではなかったことが判ります。

定専坊と万福寺の本末関係については、この関係を佛光寺時代に溯るものとみる見方もあります。定専坊ももとは佛光寺系の寺だったというのです。定専坊の所在地、三番も淀川の流域です。もとの佛光寺系の寺には楠一族など南朝武将に関わる開基伝承を伝える寺が多くみられますが、定専坊も楠正成の子孫を称しています。定専坊が佛光寺系の寺だというのはありうることのように思います。しかし、そうであったにしても、定専坊は興正寺の末寺ではありません。

興正寺の末寺とはならない、かつての佛光寺の末寺もかなりあることをうかがわせます。

(熊野恒陽 記)