「丹波つたひに摂津国をとをり」

~蓮如上人が立ち寄ったという伝承~

かつて興正寺の末寺であった寺には、経豪上人が本願寺に参入する以前に寺は本願寺に参入していたとの寺伝を伝えている寺がかなりあります。大抵は、経豪上人の参入の前に、その寺の住持が存如上人や蓮如上人などの本願寺の歴代に帰依し、本願寺の末寺となったという伝えです。それらの寺伝に従うならば、そうした寺は佛光寺末から本願寺末となり、その後、経豪上人が興正寺を興したことから、再び、興正寺末となった、ということになります。佛光寺の末寺から本願寺の末寺となった寺には興正寺の末寺とならない寺も多かったとみられますが、その逆に興正寺の末寺となる寺も相当にあったことをうかがわせる伝えです。

経豪上人が本願寺に参入する以前に、本願寺の末寺となっていたと伝える寺は各地にありますが、丹波国氷上郡大崎(兵庫県丹波市氷上町)の仏現寺という寺では、文明七年(1475)に蓮如上人が寺に立ち寄ったとの寺伝を伝えています。蓮如上人は文明七年八月、吉崎から畿内に戻り、河内国の出口に居を定めます。その際、蓮如上人は吉崎から海路、若狭の小浜へ移り、丹波、摂津を通って河内に向かっています。

吉崎之弊坊を、俄に便船之次を悦て、
海路はるかに順風をまねき一日かけにと志して、若狭之小浜に船をよせ、
丹波つたひに摂津国をとをり、此当国当所出口の草坊にこえ(『御文』)

仏現寺ではこの時に、蓮如上人が立ち寄ったのだといっています。その時のものとして、仏現寺には蓮如上人が腰を下ろしたとされる腰掛石なる石がのこされています。仏現寺は、現在、大谷派に属していますが、仏現寺が大谷派となるのは享和二年(1802)のことです。それまでは興正寺の末寺です。経豪上人が本願寺に参入するのは文明十三年(1481)ころのことであり、この伝承によるのなら、仏現寺は経豪上人に先だって本願寺に参入していたことになります。

この仏現寺の創設がいつのことなのかは判然としませんが、仏現寺が相当に古くからあったことは間違いないことです。仏現寺のある地域一帯は、はやくから佛光寺の門徒がいた地域です。この地域に佛光寺の教えがひろがったのは了源上人の時代のことで、仏現寺のある大崎の近くには了源上人の門弟が住んでいました。門弟がいたのは大崎に隣接する石負(丹波市氷上町石生)の地で、そこに空観という門弟がいました(光薗院本『親鸞聖人門侶交名牒』)。石負の空観と仏現寺との関係は定かではありませんが、石負の地は仏現寺とは関係の深い地です。石負の地は仏現寺の門徒が多くいた地です。この石負の門徒は仏現寺が大谷派に転派した際、大谷派になることを拒んで集団で仏現寺を離れます。石負の門徒衆は、一旦、興正寺の直門徒となりますが、興正寺はすぐに別の一寺を設けて、その寺に門徒衆をゆだねます。仏現寺やこの石負の門徒は相当に古くから存続したものとみられます。

蓮如上人が仏現寺に立ち寄ったという伝承は伝承として伝えられるだけのものですが、蓮如上人と仏現寺との関わりを示すものはこれ以外にものこされています。仏現寺には、金泥で名号を書き、名号からは光明が放たれるという十字名号がのこされています。この形式の名号は蓮如上人が用いたものです。蓮如上人が十字名号を下すのは、寛正六年(1465)の寛正の法難までのことで、このことからすれば、仏現寺が蓮如上人と関わりをもつようになったのは、存外にはやかったようにも思われます。

蓮如上人が立ち寄ったとの伝承は、この仏現寺のほか、摂津国川辺郡広根(兵庫県川辺郡猪名川町)の最徳寺にも伝えられています。最徳寺も興正寺の末寺であった寺で、佛光寺第八世の源鸞上人に帰して佛光寺の末寺になったと伝えています。最徳寺も経豪上人に先だって本願寺に参入していたということになります。

文明七年、蓮如上人は吉崎から畿内へと戻りますが、その際には順如上人が吉崎まで蓮如上人を迎えに行っており、蓮如上人は順如上人と一緒に畿内へと戻っています。当然、吉崎から畿内への経路は順如上人が決めていたものとみられます。順如上人は経豪上人の本願寺への参入を仲介した人で、佛光寺門徒の取りこみをもはかっていた人です。蓮如上人が実際に立ち寄ったのかはともかく、蓮如上人が立ち寄ったとの伝承を興正寺の末寺が伝えているということは、それらの地域では順如上人による佛光寺門徒の取りこみがすすんでいて、蓮如上人はその上を辿って畿内に戻ったということを示しているように思われます。

(熊野恒陽 記)