「本願寺参入 その一」

~摂津平野の地~

経豪上人は文明二年(1470)に佛光寺を継いだと伝えられます。経豪上人は光教上人のあとをうけ、佛光寺の住持となりました。この継職は光教上人の生前に行なわれたもので、光教上人はその後も健在です。それのみならず、経豪上人の継職の時には、光教上人の前の住持であった性善上人もいまだ健在でした。

佛光寺の住持の職は性善上人から光教上人へと引き継がれ、光教上人から経豪上人へと引き継がれます。光教上人から経豪上人への継職は光教上人の生前に行なわれましたが、性善上人から光教上人への継職も性善上人の生前に行なわれました。光教上人は性善上人の弟であり、経豪上人は性善上人の長子です。

住持の職を継いだといっても、経豪上人が佛光寺を継いだ時、佛光寺には堂舎がありませんでした。佛光寺は応仁二年(1468)、応仁の乱の戦火で全焼します。経豪上人が継いだのは堂舎を失った佛光寺でした。

応仁の乱で堂舎を失ったのち、経豪上人は京都渋谷の地から摂津の平野(大阪市平野区)へと移ったと伝えられています。応仁の乱は京都を主戦場として戦われた争いです。応仁の乱の勃発後、京都の公家や僧侶は、戦乱を避けるため、京都を去り、各地へと移り住みます。それぞれが縁を頼って移り住みました。

経豪上人が移り住んだ摂津の平野は、佛光寺には縁の深い土地です。平野には佛光寺系の有力寺院である光源寺がありました。光源寺は佛光寺六坊の一つ新坊の兼帯寺院です。新坊とは現在の光薗院のことです。佛光寺六坊は佛光寺山内に坊を持っていただけではなく、それぞれが地方に兼帯寺院を構えていました。新坊が兼帯していたのが平野の光源寺です。

平野は摂津と河内の境界に位置する町です。商業が盛んで、有力住民の合議によって治められた自治都市としても知られています。町を治めたのは有力な七軒の家で、平野ではこの七家を七名家といっていました。

光源寺もこれら町の有力住民の協力をえながら発展していきます。江戸時代初頭、光源寺は、一旦、衰えますが、この時、光源寺を再興したのは七名家の一つ末吉家です。末吉家は豪商として有名で、海外との貿易をも行なっていました。末吉家はもと野堂という姓だったといわれますが、この家は野堂の姓のころから光源寺と関係があったとみられます。このほか平野の住民では、奥野家が早くから佛光寺の門徒となっていました。奥野家も古い平野の住民で、代々、薬種業を営んでいます。この奥野家には、内部に光明本尊の絵が描かれた特殊な厨子が伝えられています。まさに平野は佛光寺にとって有縁の地であったわけで、経豪上人もこうした縁を頼って平野へ移ったものと思います。

経豪上人が平野に移ったといっても、もとより上人は単身で平野へ移ったわけではありません。経豪上人の父、性善上人も平野にいたことが判っています。性善上人は長く平野で過ごし、最期もこの平野で亡くなります。このほかには、西坊の住持の一族もこの平野に移っていました。西坊の第十一世住持、信助は平野で生まれています。西坊は現在の長性院です。西坊も平野の周辺に末寺を持っていました。

経豪上人が佛光寺の住持を継いだのは、この平野での仮寓中のことになります。以後、上人は十余年の間を佛光寺住持として過ごしますが、その間には蓮如上人も教化をすすめています。蓮如上人は文明三年(1471)から吉崎で教化を行ない、文明七年からは畿内での教化を行なっています。畿内での教化をすすめていた文明八年七月、蓮如上人は御文を認めています。

結句佛光寺門徒中にかゝり、あまさへ改邪鈔を袖にいれて、まさに
当流になき不思議の名言をつかひてかの方を勧化せしむる条、不可説の次第なり

本願寺の門徒のなかに佛光寺門徒を挑発的に勧化する者がいたことから、それを戒めています。『改邪鈔』は覚如上人が著わした佛光寺批判の書です。それを根拠に佛光寺門徒を面罵する者がいたということです。

『改邪鈔』が佛光寺を批判するといっても、『改邪鈔』は本願寺のみを正当とする立場から著わされた書です。そこで述べられる佛光寺の誤りなるものも覚如上人によって強調されて述べられたものにすぎませんが、それを鵜呑みにし、なおかつその上で、得意げに佛光寺の門徒を批判している様子がうかがわれます。蓮如上人もそうした門徒を戒めているのですが、本願寺の門徒が増えたからこそ、そういった門徒が出てくるわけで、逆にここから、本願寺の門徒が畿内で増加してきた状況を知ることができます。

(熊野恒陽 記)