「本願寺参入 その二」

~本願寺への参入は文明十三年ころのこと~

蓮如上人は文明七年(1475)に吉崎から畿内に戻ります。蓮如上人が落ち着いたのは河内の出口の地です。以後、蓮如上人はこの出口にあって、畿内に教えをひろめていきます。蓮如上人が出口に移ったのは、経豪上人の二十五歳の時にあたっています。経豪上人はすでに佛光寺の住持になっていました。

蓮如上人の畿内への移住は、佛光寺にとっては脅威となるものです。元来、畿内は佛光寺が教えをひろめていた地です。蓮如上人はその畿内において、再度、教化をはじめたのです。

実際、畿内では蓮如上人の教化によって、かなりの佛光寺門徒が本願寺の門徒になったものと思われます。佛光寺の門徒が本願寺門徒になることは頻繁にみられたことと思いますが、それとともに門徒が佛光寺から本願寺に転ずることにともなう、揉め事や争いも、各地でみられたものと思われます。経豪上人はそうした争いや揉め事も見聞していたことになります。

畿内に戻った蓮如上人は、やがて出口から山科へと移って、山科で堂舎の建立に着手します。この山科の地こそ、かつて興正寺があった地です。それのみならず、この山科や周辺の地域は、佛光寺の門徒が多くいた地だったとも考えられます。蓮如上人に寺地を寄進したという海老名五郎左衛門にしろ、もとは佛光寺の門徒であったと思われます。蓮如上人はその山科において本願寺の堂舎の建立をはじめたのです。

蓮如上人が山科で本願寺の堂舎を造営しはじめたことに対しては、経豪上人も思うところがあったはずです。本願寺は寛正の法難によって京都大谷の堂舎を失いますが、山科の堂舎はまさにその失われた堂舎を再興したものです。寛正の法難以来、蓮如上人は近江、吉崎、出口と各地を転々としますが、その間、本願寺伝来の親鸞聖人御影は近江の近松坊にのこされたままです。御影が移されるのはこの山科の堂舎だけです。山科の堂舎こそが本願寺だということです。

本願寺は失われた堂舎の再興をはじめたことになりますが、同様に佛光寺もまた応仁の乱によって堂舎を失っています。佛光寺の堂舎が再建されるのは経豪上人が去ったあとのことです。経豪上人が佛光寺の住持だった間、佛光寺には堂舎はなかったのであり、堂舎の再興は経豪上人に課せられた大きな使命でした。本願寺はかつての興正寺の所在地、山科へと移り、寺の再興をはじめたのです。経豪上人は格別の感慨をもって山科での本願寺の造営をみていたものと思われます。

山科での本願寺の堂舎の造営は文明十年(1478)から文明十五年にかけて続きますが、その間の文明十三年ころとなって経豪上人は本願寺へと参入します。本願寺への参入後、経豪上人は山科に興正寺を興しますが、参入の前から佛光寺の堂舎が失われていたことからするならば、経豪上人による興正寺の建立には、失われていた堂舎を再興するとの意図も込められていたように思われます。

経豪上人の本願寺への参入が文明十三年ころのことであることは、比叡山の衆徒が、経豪上人が本願寺の無碍光流に与したとして、経豪上人の佛光寺住持職の解任を求める議定書を文明十三年十一月三日に発していることから推測されることです。経豪上人がいつ本願寺に参入したのかは、それを明示した記録があるわけではなく、まわりの状況からおおよその時期が知られるだけです。比叡山衆徒の議定書は経豪上人の本願寺参入の時期を知る手がかりとなるものですが、経豪上人の本願寺参入の時期を知る上でもう一つの手がかりとなるのが、経豪上人の子息の誕生の時期です。

経豪上人は本願寺への参入に際し、常楽寺蓮覚の娘、如慶尼と結婚します。経豪上人と如慶尼の間には興正寺の第十五世とされる蓮秀上人が誕生しますが、一般にこの蓮秀上人は文明十四年に生まれたとされています。蓮秀上人の誕生が文明十四年であることは、天文二十一年(1552)七月十日の蓮秀上人の示寂に際し、本願寺の証如上人が、蓮秀上人が七十一歳で亡くなったと日記に記していることからいわれるものです。逆算すれば文明十四年に生まれたことになります。

ここからいっても経豪上人の本願寺への参入は文明十三年ころとみてよいのでしょうが、ただ、興正寺では伝統的に蓮教上人の誕生を文明十三年のこととしています。これに従うのなら、経豪上人の参入の時期はもっと早かったことにもなります。経豪上人の参入の時期は特定がむずかしく、あくまで文明十三年ころ、と幅をもたせていわねばなりません。

(熊野恒陽 記)