「本願寺参入 その五」

~経豪から蓮教に~

経豪上人は文明十三年(1481)ころに、本願寺教団に参入します。経豪上人の本願寺参入は比叡山衆徒の知るところとなり、衆徒は佛光寺に圧力を加えます。上人はそれを機に実際に山科へと移ります。上人が山科へと移ったのは文明十三年の末以後のことと考えられます。

本願寺参入に際し、経豪上人は蓮教との法名を得て、本願寺参入後の上人は蓮教と名のります。蓮教との法名は蓮如上人の命名によるもので、蓮教の蓮の字は蓮如上人の蓮の字をとったものです。蓮如上人の子弟や本願寺の一門以外で、蓮の字を冠した法名を名のったのはごく僅かな人たちです。蓮の字を冠した法名を名のったのは、蓮如上人の側近をつとめた下間安芸蓮崇、北陸の有力寺院である加賀願成寺の蓮智、同じく越前本覚寺の蓮光、それに横曽根門徒の本寺である報恩寺の蓮誉といった人びとです。報恩寺は親鸞聖人の直弟で、聖人の信頼もあつかった横曽根の性信の遺跡寺院です。蓮教上人が格別の待遇を受けていたことがうかがえます。蓮教上人についで、蓮教上人の次代蓮秀上人も、蓮秀との蓮の字を冠した法名を名のります。

自分の名の一字を冠した法名を人に与えるという、この蓮如上人の命名方法は、本願寺に踏襲され、以後、本願寺では、本願寺の一族や有力寺院の子弟に対しては、得度の際に時の本願寺住持の名の一字をとった法名を授けるということが行なわれるようになります。これは本願寺特有の命名方法です。のちの時代となれば、本願寺住持の名の一字を貰うといっても、それはいわば機械的に与えられたものということになりますが、蓮如上人の場合には安易に命名したわけではなく、深い配慮をもって名をつけたものと思います。

自分の名の一字を子弟以外の人に与えるというのは、武士の間では広く行なわれた慣習です。通常、これを一字御免といいました。名の一字を与えることで身内としての感覚をもたせ、関係を深めました。蓮如上人にしてみても名の一字を授けることで、経豪上人、すなわち蓮教上人との関係を深めるとの思いはあったものとみられます。文明十三年には、蓮教上人は三十一歳、蓮如上人は六十七歳です。壮年の蓮教上人に対し、蓮如上人はすでに老齢に達しています。年齢からいっても蓮教上人は蓮如上人を敬っていたはずで、蓮如上人の法名の一字を冠した蓮教との法名は蓮教上人も有り難く拝領したものと思います。

蓮教上人はこうして蓮如上人に法名を貰い、正式に本願寺へと参入しますが、そもそも蓮教上人を本願寺へと導いたのは蓮如上人の長子である順如上人です。

佛光寺蓮教は父往生の砌より頻に帰参の望あり。かの門弟当流へ帰参の仁に立より順如上人へ申されしかば、則申入られ、蓮如上人めしいだし給ふ…やがて山科に参扣し、むかしのごとく坊舎をたて、はじめの名にかへされ興正寺と号す。
これは空性坊了源、覚如上人へ参入のとき此所に立てられし一寺の称号なり。佛光寺とは当家退散のゝち渋谷にをいて号せられし名なり。
すなはち常楽寺蓮覚の婿君となして親属のまじはり佗に異なり…かくのごときの御計みな順如上人の御智慮となん(『反故裏書』)

蓮教上人は順如上人を介して、蓮如上人と対面したと書かれています。参入後、経豪上人は常楽寺蓮覚の娘と結婚しますが、これも順如上人の取り計らいによるものだと述べられています。常楽寺は存覚上人が開いた寺で、本願寺の一門につらなる寺です。順如上人はこの常楽寺蓮覚の娘を、一旦、自分の養女とし、その上でこの娘を経豪上人と結婚させています。この娘はのちに法名を如慶と名のります。本願寺参入後、蓮教上人は山科に坊舎を建て、興正寺を再興しますが、『反故裏書』は、それに対しても順如上人の計らいがあったのだとしています。順如上人が蓮教上人に助力を惜しまなかったことが判ります。

蓮教上人の本願寺参入はこの順如上人がいたからこそなされたものともいえますが、この順如上人は蓮教上人の本願寺参入後、程なくして亡くなってしまいます。順如上人が亡くなったのは、文明十五年(1483)五月二十九日のことです。四十二歳でした。蓮教上人の本願寺参入は山科本願寺の造営中になされますが、その本願寺の堂舎が完成するのがまさに文明十五年のことです。山科の堂舎の完成するのは順如上人が亡くなった直後のことで、順如上人は完成した堂舎をみることはありませんでした。

(熊野恒陽 記)