「了源上人と蓮如上人」

~山ふかく地しづかにして~

文明十六年(1484)の末、蓮如上人は一通の御文を認めます。本願寺が建つ山科の状況について述べたものです。

抑雍州宇治郡山科郷之内野村者、往古より無双の勝境なり。
されば山ふかく地しづかにして、更にわづらはしき事なく、
里とをく道さかりて、かまびすしきなし。
このゆへに、一宇の坊舎を建立して、すでに当時は七年におよび侍べりき

本願寺のある山科郷野村の地について、その地を並びない勝れた地であり、山ふかく、里も遠いので、騒がしいということもない所だといっています。

ここで蓮如上人は山科を山ふかく地しずかな地だと述べていますが、この記述の内容は、この時期に蓮如上人が書いた御文のなかにあっては、かなり特異な内容です。この御文で蓮如上人は山科の坊舎の造営がはじまってからすでに七年が経過していると述べています。山科本願寺の造営は文明十年(1478)にはじまります。本願寺の堂舎そのものの造営は文明十五年(1483)にほぼ終わりますが、山科には本願寺だけではなく、本願寺の家臣の住居や、本願寺に関係する寺の坊舎、それに一般住民の家屋など、さまざまな建物が建てられます。当然、それらは本願寺の完成後にも建てられるわけで、蓮如上人がこの御文を書いた文明十六年は、それらの建物が続々と建てられていた時期にあたっています。そうであるなら、この時期の山科は、相当に騒がしかったということにもなります。

実際、そうした山科の発展の様子は蓮如上人の他の御文に反映しています。本願寺の造営がはじまってからの御文には、大規模な工事が進んでいる様子や、それを喜ぶ蓮如上人の心情などが綴られています。加えて、山科本願寺には諸国からの参詣の人びとも多く、文明十三年(1481)の報恩講には極めて大多数の人びとが本願寺につめかけたと、蓮如上人自らが御文に述べています。

此一七日ヶ日報恩講中にをひて近国近郷之門葉群集して、幾千万と云数なし

山科の繁栄の様子を綴ったこうした一連の御文のなかにあって、山科を山ふかく地しずかな地とする、文明十六年の御文はやはり特異な御文です。

この御文が特異な内容となっているのには理由があります。この御文が特異なのは、この御文は他の人が書いた文章をそのまま引き写して書かれたためだと考えられます。問題はそのもとの文章ですが、そのもとの文章は、了源上人が山科に興正寺を建立する際に著した勧進帳なのだと思います。勧進帳のなか、了源上人は山科の様子に触れています。

コヽニ雍州ノウチ山科ノホトリニ一所ノ霊地ア リ、ケタシ无双ノ勝境ナリ、
ヤマフカク地シツカニシテ、サラニ憒閙ノコヱナク、サトトヲク、ミチサカリテ、
ハルカニ囂喧ノキヽヲヘタツ、観念ニタヨリアリ、練行ニサマタケナシ、
仍コノ名区ニツイテ梵閣ヲカマヘントオモフ

山科にある一所の霊地について、その地を並びない勝れた地で、山ふかく、里も遠い所だといっています。蓮如上人の御文と表現が酷似しています。勧進帳には憒閙(かいどう)とか、囂喧(ごうけん)といった難しい語が用いられていますが、勧進帳にはこれらに訓が付されています。憒閙に付されるのは「ワツラハシク、イソカハシキコヱナシトナリ」の訓で、囂喧に付されるのは「カマヒスシキコトヲヘタツトナリ」の訓です。わずらわしい声はないと、喧しきこともないとの訓が付されているのであって、これを加えれば、この勧進帳と御文はますます似たものとなります。蓮如上人が了源上人の勧進帳をみて、御文を書いたことは間違いないでしょう。山科をかつての興正寺の所在地とする意識は蓮如上人にもあったのです。一説に、この了源上人の勧進帳は存覚上人が書いたものともいわれます。存覚上人が書いたにしても、当然、それは了源上人の考えを文章としているのであって、内容的には、この勧進帳は了源上人の著述とみてよいものです。

この了源上人の勧進帳を蓮如上人にみせたのは、蓮教上人以外には考えられません。蓮教上人が了源上人の勧進帳を大切にしていたからこそ、蓮如上人にそれをみせたのでしょう。了源上人の興正寺がかつて山科にあったとの思いを蓮教上人が強く抱いていたことを示しています。蓮教上人が本願寺に参入したことには、山科に興正寺を再興するということが大きな要因になっていたことがうかがわれます。

(熊野恒陽 記)