「興正寺再興」

~再興された興正寺~

蓮教上人は本願寺に参入したのち、山科の地に興正寺を建立します。佛光寺は、応仁二年(1468)、応仁の乱の戦火によって堂舎を失っています。佛光寺時代の蓮教上人が継いだのはこの堂舎を失った佛光寺であり、以後、上人は佛光寺の堂舎を再興することなく、本願寺へと参入します。佛光寺にいた時、蓮教上人は堂舎を構えていなかったわけであり、蓮教上人は山科においてはじめて堂舎を構えたことになります。

この蓮教上人が建てた山科の興正寺については詳しく知ることはできません。蓮教上人の建てた興正寺についてはいくつかの伝承が伝えられるだけです。

そうした伝えの一つとして、『紫雲殿由縁記』という書には、蓮教上人は山科に小庵を設けたとの伝えが記されています。

経豪ヲ蓮公改之号蓮教、蓮覚ノ婿トス、
其後蓮教ヲ号興正寺、山科竹中ノ庄ニ小庵ヲ結フ

蓮公とあるのは蓮如上人のことです。蓮如上人が経豪の名を蓮教と改め、その蓮教上人を常楽寺蓮覚の婿としたと述べられています。続けて、蓮教上人は興正寺の寺号を号し、山科の竹中の庄という所に小庵を結んだ、と書かれています。この記述を信ずるなら、興正寺の堂舎は小庵であって、いたって小規模な建物だったということになります。

しかしながら、蓮教上人が建立した興正寺の建物が、そうした小さなものであったとは思われません。山科の興正寺については、蓮教上人の時代のことは詳しく知ることはできませんが、蓮教上人の子息である蓮秀上人の時代のことは、多少は知ることができます。蓮秀上人の時代の山科の興正寺は、小庵などというものではなく、相当に大きな規模の寺院です。蓮教上人の時代から蓮秀上人の時代にかけ、山科の地は本願寺を中心に寺内町として大きく発展していきます。蓮秀上人の時代、興正寺はその山科にあって、かなり広い地を占めて建っていました。興正寺があったのは本願寺の南側です。蓮秀上人の時代の興正寺は境内や建造物も奇麗であったようで、興正寺を訪れた醍醐寺の厳助という僧侶は、興正寺は極まりなく奇麗だったとの記録をのこしています。

山科本願寺一見、庭座敷之体、驚目者也。
下妻大輔、興正寺以下一覧、美麗超過(『永正十七年記』)

蓮秀上人の時代の興正寺がかなりの規模をほこっていたことは疑いありませんが、こうして興正寺が大きくなったのは蓮秀上人の代に突然に大きくなったのだとは考えられません。当然、その前の蓮教上人の代から興正寺は大きな規模をほこっていたとみるべきです。本願寺の側も蓮教上人に対しては別格の扱いをしているのであって、そこからいっても、本願寺参入後の蓮教上人が小庵を設けただけだったとは思われません。

興正寺が建てられた土地についても、建物と同様に詳しいことは分かりませんが、この土地について江戸時代の興正寺では、この地は蓮教上人が買ったものなのだとの主張をしていました。興正寺の主張によれば、蓮教上人が買ったのは山科西中小路の善空の所有する地などで、その際の証文も善空のものを含めて六通のこされているのだとされています。それらの土地を買い集めて寺地としたということのようです。

しかし、この興正寺の主張には疑問がのこります。この主張は江戸時代に急にいわれ出したもので、そして、急にいわれなくなります。蓮教上人が土地を買ったというのが事実を伝えるものであるのなら、それ以前からいわれてなくてはなりませんし、急にいわれなくなることもないはずです。それに、証文があるといっても、その証文の実物が伝えられているわけではありません。江戸時代、興正寺は本願寺との対立を深めますが、この主張はそうした対立のなか、本願寺への対抗上、いわれ出したもののように思われます。山科の興正寺は本願寺の援助など受けず、蓮教上人が独自に建てたものだとするのが興正寺の主張なのでしょう。

江戸時代の興正寺は山科の興正寺は蓮教上人が独自に建てものだと説いていましたが、土地の割り当てなどで蓮教上人への本願寺の助力があったのは当然のことです。山科では、興正寺は本願寺の南側に隣接して建っていましたが、そうした場所に興正寺が建っていることも本願寺の助力がなければありえないことです。

こうして隣接する地を割り当てるということは待遇としては最高の待遇です。本願寺は興正寺には最大限の配慮をはらっていたわけで、ここからも興正寺が格別の存在であったことがうかがえます。

(熊野恒陽 記)