「阿弥陀寺」

~蓮教上人と相前後して本願寺に参入~

蓮教上人の本願寺参入に関連して、古くから蓮教上人が本願寺に参入した際には、四十二の坊が蓮教上人に従ったということがいわれます。佛光寺には、元来、四十八の坊があって、そのうち四十二坊が蓮教上人とともに本願寺に参入し、佛光寺には六つの坊がのこったとするものです。こののこされた六つの坊が現在の佛光寺六坊なのだとされています。

この四十二坊との坊の数は、蓮教上人に従った坊の数としてよくいわれるものですが、もとより実数を示すものではありません。要は多くの坊が蓮教上人に従ったということをいったものです。

興正寺の末寺に関係する数として、この四十二との数以上に重要なのは三という数です。古く、興正寺には三箇寺の有力末寺があって、この三箇寺を末寺頭といっていました。三箇寺とは、端坊、東坊、阿弥陀寺の三寺です。興正寺では末寺頭はこの三箇寺に決まっていて、途中で末寺頭が別の寺に代わったということもなければ、他の寺が末寺頭に加わるということもありませんでした。末寺頭といわれたのはこの三寺だけです。末寺頭の三寺は扱いも特別で、いろいろな儀式の際にも主要な役割はこの三寺がつとめましたし、三寺の行なう任務は三寺だけが行ない、他の寺が代わりに行なうということもありませんでした。三箇寺はまさに別格だったわけです。この三寺を別格に扱うのは蓮教上人以来のことで、明治時代にいたるまで一貫して続きます。通常はこの三寺を総称して「頭(かしらの)三ヶ寺」といっていました(『法流故実条々秘録』)。

三箇寺が末寺頭であったことは一貫して続いたことですが、このうちの阿弥陀寺は途中で寺号を改めています。あたらしい寺号は性応寺で、蓮教上人の本願寺参入からおよそ七十年を経た天文十九年(1550)となって性応寺と改めました。この寺は、現在、鹿児島県にあります。鹿児島県に移ったのは明治時代になってからのことであり、それまでは和歌山県、すなわちもとの紀伊国にありました。性応寺は紀伊や畿内に多くの末寺をかかえる寺でした。性応寺については、一般に性応寺は当初から紀伊にあったものと思われていて、普通、性応寺はもとから紀伊にあったと説かれています。しかし、これは誤りです。この寺はもと堺にありました。堺から紀伊に移ったのは天文十九年のことと考えられ、寺号を阿弥陀寺から性応寺に改めたのも移転に際して改めたものとみられます。

性応寺の伝えるところでは、性応寺、つまりは阿弥陀寺を開いたのは安満了願という人物だったとされています。この了願なる人物は実在の人物です。了願は後醍醐天皇方の南朝に仕えた武士で、楠正成で有名な楠氏の一族であったといわれます。この了願は『太平記』にも登場します。『太平記』では阿間了願と表記されますが、それによると了願は勇猛な法師武者で、身の丈は七尺余りもあったとされています。鹿児島の性応寺には、現に了願に充てられた文書などが伝えられており、阿弥陀寺が了願と関係する寺であったことは確かなようです。了願は南朝の本拠地である吉野の貝原という地で没したと伝えられていて、貝原にある善徳寺という寺には了願の墓とされるものがのこされています。この善徳寺という寺は古くから性応寺の末寺だった寺です。

この阿弥陀寺がもとは佛光寺の末寺で、その後に興正寺の末寺になった寺であることは疑いのないことです。阿弥陀寺については、佛光寺の側にもこの寺について言及した文書がのこされています。

抑今度就仏法之儀、彼阿弥陀寺、犯破法輪之逆罪…
可為出仕停止之由、一同評議畢上者、堅可被任進退之是非、衆中議為後日加連判…

仏法のことについて阿弥陀寺が逆罪を犯したので出仕を停止するというものです。これは幾人もの人びとが連署した連判状の一部で、明秀、性宗、覚甚、教尋、智誓、康秀、秀運といった人たちが署名しています。署名しているのは佛光寺六坊の住持たちです。六坊の住持たちが阿弥陀寺の出仕を止めているのです。

この連判状が書かれたのは文明十三年(1481)二月二十三日のことです。蓮教上人が本願寺に参入するのも文明十三年ころのことであり、阿弥陀寺が犯したという逆罪なるものも蓮教上人の動向と関係するものと思われます。おそらく阿弥陀寺に本願寺に接近する動きがあって、六坊もそれを指して逆罪といっているものと思います。阿弥陀寺も蓮教上人と相前後して本願寺に参入したことが分かります。

(熊野恒陽 記)