「東坊」

~蓮教上人とともに本願寺に~

かつて興正寺では、端坊、東坊、阿弥陀寺の三箇寺が末寺頭といわれ、特別の扱いをうけていました。この三寺が別格に扱われるのは、蓮教上人が興正寺を再興してから明治時代まで一貫して続いたことです。三寺ともに佛光寺以来の興正寺の末寺で、三寺それぞれが多くの末寺をかかえていました。

三寺のうち端坊と東坊は坊号を称していますが、これは佛光寺時代から称されていた坊号なのだとみられます。現在も佛光寺本山の門前に並んでいる佛光寺六坊の坊号は、南坊、西坊、新坊、中坊、奥坊、角坊といった坊号です。新坊以外は、位置関係を表す坊号が用いられていますが、端坊、東坊もともに位置を示す坊号であり、明らかに佛光寺六坊の坊号と対応しています。もとの佛光寺が興正寺とその後の佛光寺に分かれるのは佛光寺が渋谷にあった時のことです。東坊、端坊の坊号も、渋谷の地でのそれぞれの所在地を示す坊号ということになります。

渋谷にあった坊について、東坊は由緒書のなか、渋谷に三間に五間の本堂があったといっています。

寛正五甲申年、渋谷居住ノ処ハ多屋ニテアリシヲ、三間ニ五間ノ本堂ヲ建立シ、
号竹林山東坊蓮華蔵院(『竹林山東坊蓮華蔵院系図由緒書』)

寛正五年(1464)、渋谷に本堂を建て、東坊蓮華蔵院と号したと記されています。渋谷にあったのは多屋であったともいっていますが、多屋とはいうなれば支所のことです。渋谷にあるのが支所であるなら、それに対する本所があるはずですが、その本所について、東坊は近江の長浜に本坊があるといっています。そして、その本坊とは、現在の長浜大通寺、すなわち大谷派の長浜御坊なのだといっています。大通寺は大谷派の寺ですが、これについて、東坊は由緒書のなか、大通寺はもともと東坊の本坊であったが、本願寺の東西分派の際に東本願寺についたのだといっています。

慶長七壬寅年、教如上人東六条ニ一寺御取立ノ時分、東坊中国ノ諸末寺不離散ヤウニ可致教訓由、准如上人ヨリ被仰付候ユヘ親子共中国ヘ下向シ数百ケ寺ノ末寺一ケ寺モ御当家ヲ不相離ヤウニ推シ鎮メ候、然レトモ、其ノ留守ニ江州長浜ノ本坊裏方ヘ奪ヒトラレ、唯今東本願寺ノ兼帯所ニナリ、東坊儀ハ其ヨリ已来無本坊ニナリ候

東西分派の際、西本願寺の准如上人から、中国地方の東坊の末寺が東本願寺につくようなことがないようにと命ぜられので、中国地方に下り説諭につとめたところ、数百の末寺は一寺たりとも東本願寺につくことはなかったが、その留守の間に本坊が東本願寺についてしまったと書かれています。そして、その本坊がいまの東本願寺の兼帯所なのだとも述べられています。

長浜御坊は広い境内に、豪壮な、門、本堂、書院が建ち並ぶ大きな寺で、代々、東本願寺門跡の連枝が入寺した寺です。その壮大な様子から、この寺が東坊の本坊であったとはにわかには信じられませんが、しかし、東坊のいっていることも一概に否定はできません。長浜御坊がいくら大きな寺だといっても、当初から大きな寺であったわけではありません。いまの御坊の境内地は江戸時代のはじめに彦根藩主から寄進されたもので、その時までは広い境内があったわけではありませんし、豪壮な建物にしろ、それらは御坊にふさわしいものとして、東本願寺、彦根藩などの協力のもとに建てられたものです。そうした前提に立つなら、東坊のいっていることもありうることのように思われます。

元来、長浜周辺の地域が東坊にとって縁深い地であることは事実で、長浜周辺にはいくつか東坊の末寺もあります。長浜周辺の門弟は東坊が頼りにした門弟で、戦国時代、大坂の本願寺で東坊がつとめなければならなかった三十日番という役目を、この地域の門弟が東坊に代わってつとめたりもしています(『天文日記』)。東坊の伝えはあながち否定することはできません。

蓮教上人の本願寺参入に関することとしては、東坊は蓮教上人を本願寺に誘ったのは東坊八世の教尊で、その教尊の導きにより蓮教上人とその門下も本願寺に参入したのだといっています。東坊はその功によって、蓮如上人からご書を一通授かったともいっています。蓮教上人を本願寺に誘ったとするのは東坊だけでなく、端坊も端坊が誘ったと伝えています。どちらが誘ったものなのか、そして、本当にどちらかが誘ったのか、その真相は定かではありませんが、少なくとも、蓮教上人と端坊、東坊が互いに呼応しながら本願寺に参入したことは間違いのないことです。

(熊野恒陽 記)